映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。前回、『乱れる』で加山雄三の魅力を語っていただきましたが、引き続き、この俳優のナイスガイぶりが楽しめる『戦国野郎』を取り上げます。そして洋画は、『大人は判ってくれない』の少女版として話題のフランス映画で、この12月に公開される『ペパーミントソーダ』です。これまでにない異色の2本立てをお楽しみください。
紹介作品
ペパーミントソーダ
製作年度:1977年/上映時間:101分/監督/脚本:ディアーヌ・キュリス/撮影:フィリップ・ルースロ/音楽:イヴ・シモン/出演:エレオノール・クラーワイン、オディール・ミシェル、アヌーク・フェルジャック、コリンヌ・ダクラ、コラリー・クレモンほか
公開情報:2024年12月13日(金)渋谷 ホワイト シネクイント ほかにて
公式ホームページ:www.ripplev.jp/peppermintsoda/
戦国野郎
製作年度:1963年/上映時間:97分/監督:岡本喜八/脚本:佐野健、岡本喜八、関沢新一/音楽:佐藤勝/撮影:逢沢譲/出演:加山雄三、中谷一郎、佐藤允、田崎潤、星由里子、中丸忠雄、水野久美、砂塚秀夫、天本英世、二瓶正也ほか
今月の「2本立て」はとびこみの外国映画(長いあいだ日本未公開だった注目すべきフランス映画の1本)と、日本映画は前回の『乱れる』に次ぐ加山雄三の、また別の一面(というより、やや忘れられかけていると言っていい)、こんな出演作品もあったことを思い出させる青春アクション映画(それも時代劇)の1本になるのだが、カラー作品と白黒作品という対照はともかく、ちょっとちぐはぐな組み合わせながら、こんな機会もめったにないと思い、取り上げることにした。
思春期の姉妹をいきいきと描く青春映画の傑作
『ペパーミントソーダ』(1977年)は舞台女優出身のディアーヌ・キュリス28歳の映画監督初作品で、彼女自身の少女時代の体験をもとに明るくフレッシュなタッチで描いたチャーミングな青春映画だ。フランスの最も権威ある映画賞として知られるルイ・デリュック賞を受賞。こんなに素敵な映画がどうしてこれまで日本で公開されなかったのだろうとふしぎに思ったくらいだ。その後のディアーヌ・キュリス監督作品、『女ともだち』(1983年)、『愛のあとに』(1992年)、『彼女たちの関係』(1994年)、『サガン—悲しみよこんにちは—』(2008年)なども(もっといろいろな作品があったと思うけれども)、また見直してみたいと思う。
『ペパーミントソーダ』は製作から47年後の日本初公開だが、そんな時代のへだたりなどまったく感じさせない現代的ないきいきとした若々しい映画だ。1963年のパリ、両親が離婚して母親と暮らす15歳と13歳の姉妹の(正確には1963年夏から64年夏までの)1年間を追ったスケッチふうの(あるいはむしろスクラップ・ブックのような)作品なのだが、周囲の大人たちにとってはたわいのないことでも十代前半の多感な少女たちにとってはすべてが衝撃的な出来事にうつるので、すべてが単に懐かしい思い出などではなく、むしろ生々しい、現在進行形の、いままさに起こりつつあるリアルな事柄の連続のような迫力がある。門限の厳しい家庭とともに11歳から入学する中学と高校を合わせたようなフランスの7年制の規律正しい女子校に姉妹は通学しているのだが(姉は上級生、妹は下級生だが、昼食時間は食堂でいっしょになる)、この女子校のシーンなどまるでスクリーンが急にふくらんで破裂しそうなはつらつぶりだ。休み時間の校庭での生徒たちのおしゃべり、セックス談義。
姉妹の思い出は、学校の休暇に父親とすごす夏と冬のバカンスのスナップ写真だけ。やさしいけれども見かけはちょっとだらしない父親。母親には若いハンサムな愛人がいて、娘たちにもやさしくふるまうのだが、13歳の妹、アンヌはいつも不機嫌である。そのくせ、母親と愛人がいっしょにうつっている写真をいつも持ち歩いて、友だちには両親の写真と偽って見せたりする。複雑な年頃なのである。
学校の先生たちはみな子供に理解のない醜悪で意地悪な人でなしのように描かれる。独裁者の校長、権威主義のかたまりのような教頭、マニキュアをしている生徒を子供のくせに生意気だとしめつけて、マニキュアを残酷に剥がしてしまうサディスティックな美術教師、冬の極寒の日でも生徒たちには裸に近い薄着をさせ、自分はハァハァと汗をかきながらも毛皮のコートを着込んでいる太った体育教師、それにいい年をした男の守衛までが「ここでは女の政治活動は禁物だ!」などとにくにくしげにどなりちらすありさまである。少女たちの性のめざめとともに政治意識のめざめも描かれる。
1963年の出来事といえば、ケネディ大統領の暗殺、アルジェリア独立に反対する秘密軍事組織OASの暗躍。映画はアラン・レネ監督の『ミュリエル』やスティーヴ・マックイーン主演の『大脱走』(ジョン・スタージェス監督)が話題になる。姉妹はスティーヴ・マックイーンのファンで、ふたりでこっそり映画館に観に行く。
イラスト/池田英樹
自習の時間だったか、担任の教師が遅れて来なかったすきを見てだったか、教室の机の上に立ち上がってシルヴィー・ヴァルタンの大ヒット曲「アイドルを探せ」を大声で絶唱する生徒もいる。同級生にはミュリエルという名の女の子もいて、ある日突然、欠席して、そのまま学校に来なくなり大騒ぎになる。家出をしたらしい。フレデリックはミュリエルの親友だったので、心配してミュリエルの父親に会いに行く。妻を亡くしたあと娘のミュリエルにも家出されてひとりぼっちになってしまった父親に同情したフレデリックはそのまま恋に落ちて…同情が恋になるというよくある話ながら、このあたりのさりげない繊細な描きかたは少女の心のふるえをやさしく感動的に伝えてくる。
フレデリックの妹、アンヌは白いソックスの代わりに黒いタイツを大人の女のようにはきたいのだが、母親はなかなか許してくれない。着る物ばかりか、飲み物のペパーミントソーダもまだ子供の彼女には許されていない。フランス語ではディアボロ・マント(悪魔のミント)とよばれるレモネードとシロップを混ぜて作るハッカ入りの——大人の飲む——清涼飲料水で、これが映画の題名になっている。13歳の少女、アンヌはこっそり母親のパンティストッキングをはいてカフェに入り、ペパーミントソーダを注文するが、姉のフレデリックに見つかってカフェから追い出されてしまう。「ママには言わないで」と妹は姉に懇願する。13歳の少女はまだ子供で、思わず(ということは何の悪気もなく)万引などもしてしまって、母親に「うちの子が泥棒をするなんて!」とどなりちらされる。そんな少女にも待望の初潮を見る日がやってくる…。いろんなことが起こる。少女たちにとっては、あれもこれも小さな大事件なのだ。
15歳の姉と連れ立ってダンスパーティーに行った13歳の妹アンヌは男の子にくどかれるが(この素朴なダンスパーティーのシーンでは1963年当時大ヒットしていたアダモの歌うシャンソン「雪が降る」などもちらっと流れる)、彼女自身はダンスも踊れない。ディアーヌ・キュリス監督の言葉を借りれば「大人になる準備ができたと感じながらも、まだそうではない、あやふやな時期」を描いた思春期の物語なのだ。
失踪した女生徒ミュリエルが学校に帰ってきたかと思いきや(彼女は家出をしてボーイフレンドと農場で新婚夫婦のように暮らしていたことを親友のフレデリックに明かし)、校庭で学校への抗議を大声で叫ぶ。校長にも教頭にも守衛にも「メルド(くそったれ)!」とののしりつづけるのである。そしてもちろん退学させられてしまう。「自分から退学したのよ」と生徒たちは大騒ぎだ。
上級生の卒業を控えて学芸会の準備がはじまり、モリエールの『女学者』を上演することになる。姉のフレデリックは男役を演じ、舞台は大成功だったが、客席を占めた父兄たちのなかに親友のミュリエルの父も来ていて、「娘の代わりに」連れてきたという若い女性を紹介され、否応なしに失恋の悲しみを味わうことになる。拍手を浴びたあと、舞台から下りて、涙が止まらないまま化粧を落とす姉のフレデリックを、それとは知らずにやさしく慰めようもなく慰める妹のアンヌがとても印象に残る。
『女学者』の舞台を観に姉妹の母親と愛人もやって来た。父親もひとりでやって来たが、舞台の成功を祝福する一群に混じることなく去って行く。生徒たちをそっちのけにして教師たちと親たちがチークダンスをしたり、抱き合って乾杯したりして白々しく淫らに盛り上がる打ち上げパーティー。
映画のはじまりの夏の海辺であざやかな黄色のワンピースの水着を着た妹のアンヌに私は目を奪われ、映画の終わりの夏も終わった海辺でこれまたあざやかな黄色のコートを着た彼女に目を奪われた。演じたのはこれが映画初出演というまったくの素人(俳優のように巧みに演じることはできなくても、「魂のある肉体」としてその自然な存在感にディアーヌ・キュリス監督も魅せられたにちがいないと思う)なのだが、エレオノール・クラーワインという名前も覚えきれずに、ただ、ただ、その輝くような若さと美しさに圧倒された(思春期の一瞬の輝き、輝きという以上にきらめきにすぎなかったのかもしれないのだが…)。姉のフレデリック役のオディール・ミシェルも負けず劣らずのすばらしさで、この姉妹役のふたりのその後のキャリアなど思い及ぶ余裕もないくらい、まさにいま輝くふたりの青春スターの誕生に胸躍る思いでこの映画を見た。古くて新しい(と言うのも変だけれども、時代を越えたそんないきいきとした魅力にあふれた)映画の傑作だ。
アクションスター加山雄三が楽しく盛り上げる痛快作
「若大将」加山雄三の1960年代の数々の出演映画のなかから、いまもDVDでなら見られるというので、白黒作品だが、忘れがたい痛快時代劇『戦国野郎』(岡本喜八監督、1963年)を久しぶりにたのしんだ。
若き日の加山雄三は巨匠・黒澤明監督の時代劇、『椿三十郎』(1962年)、『赤ひげ』(1965年)などにも出演しているが、いずれも三船敏郎が主演の作品で、若き加山雄三は傍役の若僧あつかいといったところ。江戸時代を背景にした時代劇にはどこか似つかわしくない(というか、場違いというか)、そんな感じすらしたけれども(厳しい完全主義で知られた大監督の指揮の下で天下の若大将もかなり萎縮していたのかもしれないのだが)、『戦国野郎』は江戸時代の格式張った侍とは違って奔放、乱暴な野武士や盗賊が横行する乱世で群雄割拠の戦国時代を背景にした忍者映画であり、監督も軽快な娯楽活劇の名手・岡本喜八監督の作品だということもあって、若き加山雄三ならではの元気はつらつたるアクションスターとしてダイナミックにたのしく映画を盛り上げている感じだ。
「荒野に血を呼ぶ黒い疾風!/敵中突破の忍者愚連隊!」というのが映画の広告やポスターの宣伝惹句で(因みに1960年、加山雄三初出演の岡本喜八監督作品の題名が『独立愚連隊西へ』だったので「忍者愚連隊』という惹句が使われたのだろう)、DVDの付録(特典)の予告篇にも「鬼才岡本喜八監督が/雄大なスケールと/ダイナミックなタッチで描く/豪快時代劇巨篇!」と謳っている。
イラスト/池田英樹
戦いにはこれに勝る武器なしといわれた“種子島”(火縄銃)3百挺の運送をめぐって、一国一城の主になることを夢みて放浪する若き忍者(ナイス・ガイというか好漢・加山雄三が快演)、歴史上実在の人物・木下藤吉郎(のちに天下を取る若き日の豊臣秀吉だが、これを猿顔のくせもの俳優・佐藤允がじつに愉快に好演、「俺がいないと歴史が変わるぞ」などとほざいたりする)、馬を使って運送する馬借の集団(親方を貫禄十分の田崎潤が演じ、その美しい野生的な男まさりの娘を星由里子が気持ちよく魅力的に演じる)、水路を活用して運送する海賊・村上水軍(その総帥として海賊たちを支配するバテレン風の衣裳をまとった美女を水野久美が妖しく演じる)、そして敵も味方も相乱れてのすさまじい忍者合戦が絡みあって、壮絶な戦闘と冒険の旅路になる。
寝返りを打つのもよしとして友情には厚くタフで陽気な髭面の中谷一郎、眉間に深い傷跡があり、長い太刀を背負って肩先からすっと太刀を抜く怒りと怨念にゆがんだニヒルな容貌の中丸忠雄、細長い体型に無気味で特異なマスクで黙々と弓矢を重ねて射ちつづける天本英世といった岡本喜八組の名優たちが各人各様に個性的な(というか、異形異様な)忍者を演じ、味のある不細工な三枚目といった感じの砂塚秀夫が馬借の下っ端の仲間を演じて走り回り、人に言われるまで背中に矢が刺さって致命傷を負っているのにも気がつかず、自分の手で傷口をさわって血がどっと吹き出るのを見てぶっ倒れるといった大仰な活躍ぶりだ。一癖も二癖もある名脇役たちがそれぞれすばらしい見せ場を作る。
最後は猿顔の木下藤吉郎の知恵と策略の勝利で無事3百挺の“種子島”は運ばれてめでたし、めでたしということになるのだが(結局、馬借たちも村上水軍も策士・木下藤吉郎に見事にだまされたことがわかる)、好漢・加山雄三の忍者は佐藤允の知恵者の木下藤吉郎に才能を買われて一国一城を保障するからと誘われるのだが、その冷酷な策略を許せず、部下になることをことわり、命がけの戦闘のさなかに恋仲になった馬借の親方の娘・星由里子とともに馬に乗って乱世の原野のかなたへと去って行くという幕切れである。単純ながらロマンチックな時代活劇の快作と言えるだろう。どこかで(映画館でもテレビでも)1960年代の岡本喜八組の忘れがたい名優たちが脇を固める若き日の加山雄三主演の生きのいい痛快な活劇(『戦国野郎』以外は現代劇だが、どれもすばらしい)の特集を組んで上映、放映してくれればいいのだが!
イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。