映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。今回は、クリスマスの季節にふさわしいアメリカ映画の名作『三十四丁目の奇蹟』と『気まぐれ天使』をセレクトしていただきました。ともに見る人をハッピーな気持ちで満たしてくれる2本です。来年(2026年)も良い年であることを願いながら、山田さんと一緒にこれらの名作を味わいたいと思います。
紹介作品
三十四丁目の奇蹟
製作年度:1947年/上映時間:96分/監督・脚本:ジョージ・シートン/原案:ヴァレンタイン・デイヴィス/撮影:チャールズ・クラーク、ロイド・エイハーン/音楽:シリル・J・モックリッジ、アルフレッド・ニューマン/出演:モーリン・オハラ、ジョン・ペイン、エドマンド・グウェン、ジーン・ロックハート、ナタリー・ウッド、ポーター・ホール、ウィリアム・フローリー、ジェローム・コーワン、フィリップ・タングなど
気まぐれ天使
製作年度:1947年/上映時間:105分/監督:ヘンリー・コスター/原作:ロバート・ネイサン/脚本:ロバート・E・シャーウッド、レオナルド・ベルコヴィッチ/撮影:グレッグ・トーランド/音楽:ヒューゴー・フリードホーファー/出演:ケーリー・グラント、ロレッタ・ヤング、デヴィッド・ニーヴン、キャロライン・グリムス、グラディス・クーパー、モンティ・ウーリーなど
今回はクリスマス映画の2本立てである。ジョージ・シートン監督『三十四丁目の奇蹟』とヘンリー・コスター監督『気まぐれ天使』——どちらも1947年のアメリカ映画だ。日本映画と外国映画を1本ずつ取り上げるという趣旨がまたも変則的に異色の2本立てになるけれども、どちらか1本だけでもDVDあるいはブルーレイで出ていたら久しぶりに見てみたいと思って編集部の方に調べてもらったところ、どちらも出ているとわかって、あまりのうれしさに思いきって2本とも取り上げることにしたのである。
●ハリウッド映画ならではのハッピーエンド志向の力強さ
クリスマスを幸福に迎えて、誰もが「メリー・クリスマス!」とお祝いの挨拶を交わしてハッピーエンドという単純な映画……といっても、そんなに単純に幸福な映画にしょっちゅうお目にかかれるわけではなくて、神様のお告げだけで映画が面白くなるというわけではもちろんないし、それだけに現実にありそうもない話をいかにも本当らしく見せてくれる奇跡のような映画に出会えたときには心から幸福な気分にみたされる。そんな幸福な最高のクリスマス映画の1本がフランク・キャプラ監督、ジェームズ・スチュアート主演の『素晴らしき哉、人生!』(1946年)だった。誰もが幸福なクリスマスを迎えるはずの夜に不幸のどん底におちいって自殺しようと思っている男(ジェームズ・スチュアート)を救い出すためにクラレンスという天使(ヘンリー・トラヴァース)が地上に降りてくるというオトギばなしのような素晴らしい映画だった。それに負けず劣らず夢にあふれた、これぞハリウッド映画ならではのファンタジーが『三十四丁目の奇蹟』と『気まぐれ天使』だ。奇蹟をもたらすサンタクロースと気まぐれに誰もの恋と夢をあっさりかなえてくれる天使が現実に出現するのである。これが嘘みたいに面白く、いかにもありそうで、観客もみな童心に返ってサンタやエンゼルの存在を信じてしまうだろう。信ずる者こそさいわいなる哉、これぞよき時代のアメリカ映画ならではの単純だが力強い楽天主義の勝利だ。世界大戦直後の暗く貧しく世知辛い現実を見据えたイタリア映画、ネオレアリズモが世界を揺るがせ、映画史の変革が取り沙汰された転換期だったが、ハリウッドの、アメリカ映画の、ハッピーエンド志向は健在だったことがわかる。エドマンド・グウェン扮する真に迫ったサンタクロースぶりも背広姿の紳士然としたケーリー・グラントの一見やる気のなさそうな、すました(というか、怪しいというか)気まぐれ天使のオトボケぶりも愉快、痛快、堂に入った名演である。サンタクロース役で1947年度アカデミー賞に輝いたエドマンド・グウェンの受賞の挨拶が『三十四丁目の奇蹟』のブルーレイ版の特典映像に収録されているけれども、「これがほんとのサンタの贈り物ですよ」と本人もおどろく楽しさだ。おりから目下劇場で公開中のアメリカ映画『クリスマス・イブ・イン・ミラーズ・ポイント』(2024年)の監督(脚本も書いている)タイラー・タオルミーナがインタビューでこんなふうに語っているのが目についた。
アメリカ人の多くが「終わりの予感」を抱いています。気候変動や「アメリカを再び偉大に」時代の喪失感。それに加え、大家族の中で、それぞれが家庭を持つことで自然に分裂、分断していく現象があります。多くの同世代が「家族のかたちが変わって休暇の伝統も変わった」と話していました。祖先の家が売られると聞くと、笑いのツボを押されたように、存在の意味を突きつけられる感覚が生まれます。それを知った瞬間、私たちは『素晴らしき哉、人生!』のジミー・スチュアートのように、当たり前だと思っていた人や喜びを新鮮に見直せるのです。[クリスマスという]この祝日の壮大さ——アメリカ人が家中を飾り付けたくなる強い衝動——が、人生を祝う価値があるという一種の証明になっていると感じたんです。クリスマスの飾りや小物は必ずしも重要ではないけれど「人生を祝うべきだ」という感覚をさらに強めます。思い出の細部とクリスマス飾りの細部が共鳴し、私たちの感傷的な物語を語るのに最もふさわしい場になりました。従来の物語構造にとらわれず、「クリスマスも家族も友人も思い出も、ただそこにある」という事実を味わう映画にしたかったんです。(「キネマ旬報」2025年12月号)

イラスト/池田英樹
●心暖まる美しい奇蹟の瞬間
ニューヨークのメイシー百貨店名物のクリスマス・セールのさきがけを華やかに賑やかに彩る感謝祭の大パレードを先導するサンタクロース(もちろんサンタクロースに扮した男)が酔っ払って仕事にならないので、百貨店の人事係長の女性(モーリン・オハラ)がたまたまそこにいたクリス・クリングルと名のる白いひげのサンタクロースのそっくりさん(エドマンド・グウェン)を臨時に雇ったら、これがなんと、そっくりさんどころか、本物のサンタクロースだったというはじまりから愉快な、心ときめく『三十四丁目の奇蹟』である。当然ながら、にせものだ、インチキだ、単なる誇大妄想狂だ、という批判や告発もあり、あわれな老人は精神病院に入れられそうになるが、どうも精神病患者とは思えない。おもちゃ売り場では子供たちの人気者になり、サンタが街にやって来たんだと百貨店全体が大繁盛、街中が大騒ぎになる。ついに、大まじめに、サンタクロース裁判なるものがおこなわれ、そもそもサンタクロースなどが実在するのかどうかで大もめになるのだが、検事(ジェローム・コーワン)がサンタクロースなど子供たちの夢にしかすぎない架空の存在であり、そんなことは常識ではないかと断じて、目の前のサンタクロースをにせものあつかいすると、反対尋問に弁護士側から検事の小さな息子が召喚され、証言台から「パパはサンタがいるって言ったじゃないか」と父親の検事が責められて返答に窮してしまい、絶句。次いで全国の子供たちが一斉にサンタさん宛ての手紙を送り、どこへ配達したらいいのか困った郵政局が何万通もの手紙を裁判所へ持ち込んだためにサンタクロースの実在が証明されることになって、裁判長(ジーン・ロックハート)も実在を宣するという奇蹟の大勝利になる。
オトギばなしなんか信じない少女(当時8歳のナタリー・ウッドのこましゃくれた可愛らしさも映画の見どころである)がしだいにクリス・クリングルすなわちサンタクロースを信じるようになっていくあたりも心ときめくサスペンスとやさしさが入り混じって、とても感動的だ。少女はメイシー百貨店で仕事ひとすじの未婚の母がサンタクロースと親友になった心やさしい弁護士(ジョン・ペイン)といっしょになって家庭を築いてくれることをひそかに願っているのだが、その実現のためにもずっと夢みていた「庭にブランコがある家」をサンタさんのおかげでついに見つけるのだ。誰もがこの映画の美しい奇蹟を信じてしまう心あたたまる一瞬だ。

イラスト/池田英樹
●守護天使に扮するケーリー・グラントの不思議な魅力
『気まぐれ天使』のはじまりは小雪のちらつくクリスマス気分で賑わう都会のごく普通の街角だ。商店街らしく、クリスマス・セールの宣伝のために看板を立てて鈴を鳴らしているサンタクロースの姿も見える。そんなあわただしい人ごみのなかを病院に通うために杖をついて横断歩道を渡ろうとしている目の不自由な人がいると、守護天使である背広姿の紳士然としたケーリー・グラントがやさしく手を取って誘導してやったり、買物に夢中になっていた主婦がうっかり乳母車を手放してしまって、赤ん坊をのせたままの乳母車が坂道を滑ってだんだんスピードを上げ、あやうく転覆しそうになったところを素早くすっと止めて、あわてて助けを求めながら追いかけてくる母親を安心させてやるのも同じ背広姿の天使ダドリー(というのがケーリー・グラント扮する守護天使)である。クリスマス・ツリーの値段のことで口うるさく文句をつけている無神論者の孤独な老学者(モンティ・ウーリー)に親しげに声をかけるのも同じ背広姿の守護天使ダドリーだ。背広姿といちいち強調したのは、ハリウッドのスターのなかでも渋いスーツを一分の隙もなく着こなしたベスト・ドレッサーとして知られたケーリー・グラントが演じた守護天使だからなのだが(こんなスマートな天使を演じたのはケーリー・グラントぐらいだろう)、人を見守り手助けしてやるにしても、題名——とぼけた日本公開題名——通り、いかにも気ままで、天使だから、いつでも、どこでも、何でもやってみせますよ、といった気楽な感じなのだが、原題は『The Bishop’s Wife(主教の妻)』。ショーウィンドーの花飾りに彩られた帽子をじっと見つめている美しいロレッタ・ヤング扮する主教(教区の主任牧師)の妻に人間のように一目惚れした天使ダドリーは、彼女のあとを尾けていき、教区に新しい教会を建てるための金策に苦しんで神に祈る主教(デヴィッド・ニーヴン)に自ら天使を名のってその助手になり、いろいろ手助けして願いをかなえてやり、その妻にも感謝され、愛されようと——どうもこっちのほうが主目的らしく——企むのである。最後まで人間にはなれないことを悔やんでいるような怪人ならぬ怪天使だ。といっても、もちろん天使として派遣された使命を果たさなければならず、天使の身分を隠して、あくまでも人間として、人間臭く、礼儀正しく紳士然としてふるまうところが実に怪しげで不思議な守護天使なのである。住み込みで仕事に励む礼儀正しくやさしく男前のケーリー・グラントなので、主教の妻のロレッタ・ヤングも小さな娘とともに大好きになってすっかり夢中になる。ロレッタ・ヤングが長いふさふさとしたブルネットの髪を櫛ですいたり、花飾りの付いた帽子をかぶるシーンなどいかにも恋され、愛され、誘惑された歓びを感じている女のように、なんともいえずエロチックだ。仕事に熱中して、ともすると家族を、とくに妻をないがしろにしていたことに気づいた牧師は、まさか相手は天使なのだから…と思いつつも、ひょっとして妻の愛を失うかもしれないと心配になるという展開である。その間に(というのは、夫の主教が教区の大金持ちの未亡人に寄付のお願いをたのんでいる隙に)天使ダドリーは妻(夫人)を巧みに口説き、とくに、タクシーの運転手も仲間に入れてアイス・スケートをたのしんだりして(天使の魔術にかかったように氷上を舞い、滑りまくる曲芸まがいのスケーティングの見事さ!)、彼女にとっては「一生忘れられない」というくらいの思い出をつくってくれるのだ。ケーリー・グラントはハリウッドのスターになるずっと前、まだ10代、それも13歳ぐらいからスポーツマンで、ドタバタ喜劇と曲芸の舞台で鍛え、身のこなしの軽やかな若き2枚目としてデビューした。「ヴォードヴィル仕込みの技巧をそのまま発揮できるような時、ケーリー・グラントはなんともいえず溌剌としている。その技巧とは、つまり、自信たっぷりに元気いっぱいに自分をさらけ出すことだ」と「ニューヨーカー」誌の名物評論家だったポーリン・ケイル女史は「夢の都から来た男」という読みごたえのあるケーリー・グラント論(畑中佳樹訳、評論集「明かりが消えて映画がはじまる」所収、草思社)に書いている。「また彼は、映画の中でよくピアノを弾く——幸福そうに、情熱をこめて。実生活でもたまに弾くことがあるそうだ。仲間とジャムセッションをやることもあり、ケーリー・グラントの楽器はピアノかオルガンだ」とのことだが、『気まぐれ天使』では天使にふさわしく静かに優雅に、もちろん背広姿で、竪琴(ハープ)を弾くシーンもある。ここも素晴らしく、思いがけない見せどころだ。ダイナミックな曲芸まがいのスケートのシーンとともに、1950年代のアルフレッド・ヒッチコック監督のユーモアたっぷりのスリルとサスペンスの傑作(『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』)やさらに年をとって若いオードリー・ヘップバーンを相手にますます魅力的な男っぷりを発揮してみせた『シャレード』(スタンリー・ドーネン監督、1963年)などにつらなる成熟したケーリー・グラントぶりの片鱗を垣間見る思いで陶然と堪能できるだろう。

イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。
