
第52回
『緑色の部屋』『子供の四季』
映画評論の大家である山田宏一さんに、毎月、とっておきの映画を「2本立て」で紹介していただくコーナーです。今回の洋画は、4月に亡くなったフランスの女優、ナタリー・バイに追悼の意を込めて、山田さんとゆかりの深いフランソワ・トリュフォー監督の『緑色の部屋』を取り上げます。邦画は、前回紹介した清水宏監督の『風の中の子供』の続編で、これも子供映画の名作の誉れ高い『子供の四季』2部作の魅力に迫ります。
紹介作品
緑色の部屋
製作年度:1978年/上映時間:94分/監督:フランソワ・トリュフォー/原作:ヘンリー・ジェイムズ/脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン・グリュオー/監督補:シュザンヌ・シフマン/美術:ジャン=ピエール・コユツヴェルコ/撮影:ネストール・アルメンドロス/音楽:モーリス・ジョーベール/演奏指揮:パトリス・メストラル/音楽監督:フランソワ・ポルシル/出演:フランソワ・トリュフォー、ナタリー・バイ、ジャン=ピエール・ムーラン、パトリック・マレオン、アントワーヌ・ヴィテズほか
子供の四季
前篇・春夏の巻/後篇・秋冬の巻
製作年度:1939年/上映時間:『春夏の巻』70分、『秋冬の巻』71分/監督:清水宏/原作:坪田讓治/美術:江坂実/撮影:斎藤正夫、厚田雄春/音楽:伊藤宣二/出演:横山準(爆弾小僧)、葉山正雄、坂本武、古谷輝夫、吉川満子、河村黎吉、岡村文子、西村青兒、日守新一、若水絹子、二木蓮、倉田勇助ほか
●最後のロウソクを灯す姿が心に残るナタリー・バイの代表作
フランス女優、ナタリー・バイが亡くなったのはすでに2026年4月17日(享年77歳)、なんとも後れ馳せの追悼になるけれども、1970年代のフランソワ・トリュフォー監督の3本の作品(『アメリカの夜』『恋愛日記』『緑色の部屋』)であざやかに出現したころの思い出を中心にふりかえってみたいと思う。
フランソワ・トリュフォーが彼自身と言ってもいい映画監督の役を演じた映画づくりについての映画『アメリカの夜』(1973年)でスクリプター(記録)の役を演じたナタリー・バイは、トリュフォー映画における最も強い女(といっても、男まさりの、女らしくない女というのではもちろんなく、端的に言えば愛に溺れることなく仕事をつらぬく女)で、その仕事ぶりはトリュフォー監督の実際の相棒だったスクリプター(記録)のシュザンヌ・シフマンをモデルにしたキャラクターだったといわれる。パリの国立高等演劇学校(コンセルヴァトワール)を卒業後、テレビ・シリーズなどに出演したばかりのナタリー・バイを、偶然シュザンヌ・シフマンが街角で見かけてトリュフォー監督に推せんしたとのこと。トリュフォー自身が相手になって映画のワンシーンの読み合わせをして(「わたしはすっかりあがってしまって、うまくいかなかったけれども、トリュフォー監督は最後に、この役はあなたになるでしょうと言ってくれました。でも、眼鏡をかけて出ることになりますよって」とナタリー・バイはそのオーディションの模様を語っている)、仕事熱心のちょっとブスっぽい眼鏡をかけて元気に動きまわるスクリプター(記録)の役が決まった。『アメリカの夜』にはこんな印象的なシーンがある。撮影所から出て山のなかの崖っぷちでロケーション撮影をするために出かける途中、ナタリー・バイのスクリプターの運転する車のタイヤがパンクして、その交換を装飾/小道具係のベルナール・メネズに助けてもらったあと、近くの河原でナタリー・バイは汚れたシャツをぬいできれいなセーターに着がえようとする。肌も露わなその姿を見てベルナール・メネズがふっと「ねえ、時間があるから、ちょっとここでどうだろう?」と誘うともなく誘うと、ナタリー・バイはいとも簡単に「いいわよ」とさっさとパンタロンをおろし、おどろいてしどろもどろになるベルナール・メネズを河原の草むらのなかへ誘い込む。その痛快ないさぎよさが仕事への愛から発するトリュフォーの映画の女の強さなのだろう。トリュフォーは映画の脚本の覚え書にこんなふうに書いている。
「この若い女性は、たとえ銃を突き付けられても、スクリプター(記録)の仕事を放り出したりはしないだろう。彼女は映画のためにすべてを記録して監督を助け、ほとんどすべてのスタッフから信頼を寄せられている。時間がなくて監督の手がまわらないこまごまとした手配を彼女はすべてやってのける。彼女は撮影のあらゆる場面を支えている。彼女は完全な明晰と誠実を体現した存在として描かれる。愛についての彼女の観念は次のひとことに要約される——『男のために映画を捨てるなんて絶対にごめんよ!』」。
『アメリカの夜』に次いで、『恋愛日記』(1977年)では女たらしの主人公(シャルル・デネル)が地下の店から階段を上がっていく女のフレアスカートからはみ出した脚の美しさに見惚れて、あわてて地上まで追いかけるが、車のナンバーをやっと控えることができただけ。なんとかそのナンバーから女をさらに追いかけつづけてカフェに呼び出すことに成功するものの、やっと現れた女は肝心の脚が見えないパンタロン姿だったためについに愛するまでに至らなかった女をさっぱりとさわやかにやさしく演じたナタリー・バイだったが、つづく『緑色の部屋』(1978年)では、「死者は生きつづける」と信じて新婚早々に亡くなった愛する妻を中心に生前交友関係があった親しい人々をロウソクの炎とともに奉る男(フランソワ・トリュフォー)の異常な悲願達成の記念碑とも言うべき「死者たちの祭壇」の守り人としての役を託された女を演じる。
セシリア(というのがナタリー・バイの演じる若くやさしい女の名である)もジュリアン(というのがフランソワ・トリュフォーの演じる主人公の名である)と同じく、愛する死者たちを忘れずに記憶にとどめなければならないと思ってはいるが、たとえジュリアンを生のほうへ導こうと努力しても、ジュリアンの狂気のような関心は古い礼拝堂を修復して死者たちの祭壇をつくり、生命のあかしであるロウソクの炎で飾って懐かしい死者たちの魂に捧げることだけだ。そして自分が死んだら自分のためのロウソクを灯してくれるようにセシリアに懇願し、約束させる。愛ゆえに彼女はジュリアンの願いを承諾するが、「では、わたしが死んだら誰がわたしのためのロウソクを灯してくれるの?」と問わずにいられない。ジュリアンからの答えはない。セシリアが最後のロウソクの1本を灯すラストシーンがいつまでも心に残る。彼女だけがジュリアンの最後の守り人なのである。

イラスト/池田英樹
『緑色の部屋』はトリュフォー自身が主人公を演じていることもあって、それから6年後の1984年に監督が52歳で亡くなることを知っていると、まるでトリュフォー監督の遺言のような印象を与えるのだが、最初は『恋愛日記』のシャルル・デネルを主役に考えていたという。しかし、シャルル・デネルのスケジュールがふさがっていたので別の俳優を考えるよりも自分で演じることにして(製作予算の問題もあって)、「自分の役をできるだけ単調に、ほとんど機械的に、ニュートラルに演じる」ことにしたが、そのために相手役のナタリー・バイは自分の演技や台詞の抑揚などをトリュフォーの調子に合わせて抑えざるを得ず、苦労したといわれる(評伝「フランソワ・トリュフォー」、アントワーヌ・ド・ベック/セルジュ・トゥビアナ、稲松三千野訳、原書房)。
トリュフォーは撮影のネストール・アルメンドロスにライティング(照明)と無数のロウソクの炎のコントラストをきわだたせて映像に怪奇映画のような幻想的雰囲気をもたらすよう求める。音楽は1940年に戦死した作曲家、モーリス・ジョーベールの交響曲「フランドルの演奏会」をあらかじめフランソワ・ポルシル(音楽監督)とパトリス・メストラル(演奏指導)の協力を得て編曲・録音しておき、撮影中そのメロディーを現場で流し、俳優やスタッフが映画の「儀式的で、ほとんど宗教的なまでの雰囲気に入り込みやすいようにする」という演出法だった。
アメリカではB級怪奇映画の第一人者として知られるロジャー・コーマンの会社が配給をひきうけて、『トリュフォーのグリーン・ルーム』という「芸術的なホラー映画」のような題名で公開されたとのことで、主人公のジュリアン・ダヴェンヌが亡き妻とそっくりの人形をつくらせ、それが自分の愛する女とは違うと言ってその場で金を払って人形を叩き壊させたり、愛妻の肖像写真入りの墓標に長い時間話しかけ、いつのまにか夜の闇に包まれた墓地を歩きまわるところなど、まさに怪奇映画のような雰囲気だ。
トリュフォー監督は長篇映画第1作『大人は判ってくれない』を「亡きアンドレ・バザンの思い出に」捧げて以来、自分の人生で大切だった親しい死者たちを心から追悼し、その思い出を大事にし、親密な関係を保ちつづけてきたが、1977年にはいろいろなインタビューなどで「わたしは45歳ですが、すでにたくさんの故人たちに取り巻かれています。ジャン・コクトーが亡くなったのは1963年ですが、寂しくなると毎日のように生前の彼の録音した声を聴いています。1977年には[シネマテーク・フランセーズの]アンリ・ラングロワが、それから半年後には[イタリアの映画監督]ロベルト・ロッセリーニが亡くなりました。カンヌ映画祭の審査委員長を務めた1か月後にローマで亡くなりました。[わたしは映画批評を書いていたころ、失業中のロベルト・ロッセリーニの助監督でした。]これまでいっしょに映画の仕事をした人たちの半数が亡くなっています。忘れようにも忘れられない人たちばかりです……」とさかんに思い出を語りつづけた。
「死者に対しても生きている人に対するのと同じように多様な感情を、同じように積極的で愛情のこもった関係を持てばよいのではないか」「死者とともに生きることは可能であり、そうすべきではないか」とも語り、「死者たちのことを忘れようともしない男をスクリーンで見せることでどんな作品をつくりだせるか」とトリュフォーはこの頃すでに具体的に考えていたようだ。それどころか、実は1970年末からすでにヘンリー・ジェイムズの小説(「死者たちの祭壇」)を読み、同時に「ヒントを他にも探し、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』シリーズ全巻を読みかえし、また日本文学の、まずは谷崎[潤一郎]を読みふける。日本人の文通相手、山田宏一に手紙を書き、死者の崇拝に関する日本文学で参考になるものをみつけるのを手伝ってほしいと頼む…」(評伝、前出)。
ちょっと我田引水めくけれども、たしかに、そのころ、私はトリュフォーから手紙を受け取って、深澤七郎の「楢山節考」などのこととか書き送ったけれども、すでにフランス語で訳されていて、トリュフォーはもちろん読んでいた。「トリュフォーはさらに、アンドレ・バザンを介して知り合ったシネフィル(映画狂)の友人であるイエスズ会士のジャン・マンブリノとドミニコ会修道士のギー・レジェのふたりにも、映画の『宗教的なシーン』に協力を求める。こうした専門的な知識に裏付けられた調査活動には、このテーマに対するトリュフォーの度外れたこだわりと、これを1本の映画にしてしまうことへのやはり度外れたためらいがはっきりと表れている。」(評伝、同上)
度外れたこだわりとためらい——評伝はフランソワ・トリュフォーのこの苦闘のこだわりとためらいを、さらに、相手役のナタリー・バイのおどろきの証言を通して、こんなふうに伝えている。
「トリュフォーは[映画『緑色の部屋』の主人公を自ら演じることにしたが]この役には老けすぎだと思われるのを怖れていた[トリュフォーは46歳だった]。それが気になって結髪担当に相談までし、かつらを勧められるが結局は使わない。トリュフォーは自らこの役を演じることで、映画により私的でより真実味のある広がりを持たせるつもりだった。『この映画はいわば手書きの手紙です』とトリュフォーは語っている。『もし手で書けば、手紙は完璧ではないでしょうし、筆跡も少し震えているかもしれませんが、それは書いた人自身になり、書いた人の字になるでしょう』。トリュフォーは何よりも、ジュリアン・ダヴェンヌの役が滑稽に、さらには悲壮に見えはしないか、観客の眼には病的な情念をもった狂人と映りはしないかと危惧する。そんな理由もあってこの役を自分で演じることにしたのだったが…『彼は自分とジュリアン・ダヴェンヌの間に誰か他の人がいてほしくなかったのです。アプローチの仕方があまりにも私的でしたから』とナタリー・バイは語り、トリュフォーはそのことに懐疑的になったことさえあったと振りかえる。『彼は「狂気の沙汰だ。こんなこと、うまくいくわけがない!」とわたしに言い、何もかも投げ出したいくらいに思っていました』…」。
苦闘しつつも感動の名演(いや、迷演?!)だったと言うべきか。
●子供たちの喜怒哀楽の世界がはつらつと描かれる名作
日本映画は前回の『風の中の子供』(1937年)につづいて清水宏監督の「子供もの」の名作、童話作家の名匠、坪田讓治原作による「善太三平もの」の姉妹編『子供の四季 春夏の巻』『子供の四季 秋冬の巻』2部作前篇/後篇(1939年)を取り上げるつもりだったが、まるで映画そのものといった感じの清水宏監督のエッセーを見つけたので、代わりにまずその一部を引用させていただきたいと思う。松竹大船撮影所の子供たち(子役として働いていたのだと思う)について書かれた一文で、「映画ファン」1937年12号から「[映畫読本]清水宏 即興するポエジー 蘇る「超映画伝説」」(編=田中真澄・木全公彦・佐藤武・佐藤千広、フィルムアート社)に再録されたものからのまた引きだが、子供好きの清水宏監督ならではの、なんともおおらかで鷹揚な書きっぷりだ。さながら、というか、まさに『子供の四季』の冒頭、大きな馬にまたがって子供たちにいろんなおみやげを持ってやってくる坂本武のおじいさんといった感じだ。「僕は子供が好きなせいか、監督するんじゃないんですよ、子供と遊んでやってるんです」という清水宏ならではの映画監督っぷりが伝わってくる。
「大船[撮影所]の小供達は最も身近にいる小供だ。誰れ彼れと云う事なしに、皆んな[監督の]僕の部屋へ、ノコノコと遊びにやってくる。好き勝手に遊び廻っている。読めもしない本を展げている。喫えっこない煙草をいじってみる。洋服ダンスの上によじ登る。
僕はそんな時、小供達と一緒になって遊んでやる。
彼等は小供心にも、監督さんはコワイ者だと思い込んでいるのに、僕が一緒になって遊んでやるので不思議そうにしている。僕は小供の純真さをみて泣けてしまう事がある。
有合わせのお菓子を与えると、半分を喰べて、あとの半分はしまっておく。どうするのだと訊くと、後で家へ帰って、お母ちゃんに清水さんから貰ったのだと云うのだと答える。
この小供心は僕をひどく搏つ。僕はまた買ってやるから好きなだけみんな食べてしまえと云うのだが、母ちゃんにみせてからだと云って頑張る。
撮影中のめし時は、僕は大抵、小供達を部屋に呼んで、皆んなで一緒になって、ガヤガヤと騒ぎ乍ら、めしを喰う。
僕も大食の方だが、おどろく事には、小供達も僕と同じ位の量を喰べる。
めしを喰うと現金なもので、すっかり満足した様な顔をする。何か唱歌を聴かしてくれと所望すると、皆んな聲を合わせて、進軍の歌をきかせてくれる。小供は全く感受性の強いもので、何時の間にやら進軍の歌をチャンと覚えてしまっているのだ。」

イラスト/池田英樹
DVD化されている『子供の四季』の前篇(春夏の巻)にも後篇(秋冬の巻)にも子供たちが軍歌を歌うところがあったらしいのだが、「松竹の現存プリントは前後篇とも最終巻が欠けており、他にも失われたシーンがみられるが、これは第二次大戦後、GHQ占領下で検閲か自粛により軍に関わるシーンが削除されたと推測される」とDVD-BOXの解説(佐藤千紘「清水宏の子ども映画と失われたシーンのシナリオ再録について」)にある。
前後篇とも最終巻がなく、他にも失われたシーンが多くあるとしても、現存の古めかしい画面には戦禍の傷跡のようなものがあるわけではない。山川草木の自然に囲まれた風景のなかで子供たちが走りまわるのを見るだけで心がなごむ。大人たちは会社乗っ取りの策謀などで苦しみ、病気や死が描かれ、善太(葉山正雄)も三平(爆弾小僧/戦時中には横山準の名で出演)も思わず泣き出してしまうようなつらいシーンもあるのだが(父の死で善太が中学進学をあきらめるところ、善太三平の父母が親の許さぬかけおちの結婚だったことが判明するところなど)、木にのぼったり庭のブランコを奪い合ったり、馬跳びをしたり、遊びながらも生きる力にあふれた子供たちの喜怒哀楽の世界が最後まではつらつと画面に展開して、とことん童心の純粋さ(としか言いようのない)につらぬかれた映画だ。
「映画評論家・山田宏一の
“今月の二本立て映画」が
本になりました!
『山田宏一のとっておき二本立て映画館』
山田宏一著
草思社 3,400円(+税)
『WEB通販生活』の人気連載「映画評論家・山田宏一の“今月の二本立て映画”」に大幅加筆。とっておきの邦洋画86本のみどころやエピソードがギュッと詰まった、映画ガイド風エッセイができあがりました。読むだけで夢の世界に引き込まれること間違いなし。映画をこよなく愛する映画評論家、山田宏一さんならではの映画愛溢れる1冊です。

イラスト/野上照代
山田宏一
やまだこういち●映画評論家、翻訳家。ジャカルタ生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。1964~1967年にパリ在住。その間「カイエ・デュ・シネマ」の同人となり、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらと交友する。