コータリさんの要介護5な日常

<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。

連載第53回「旅に込めた思い」

ボクは支えられて生きている。

神足裕司(夫・介護される側)

助けてもらいながら進む旅には、旅先でしか味わえない喜びがある。

 朝、目を開けると、まず身体の状態を確かめる習慣がついた。
 指はどれだけ動くか。足にどれくらい力が残っているか。痛くて動かないのか。
 病気と生きるというのは、少しずつ変わっていく自分を受け入れることでもあるのだろう。昨日あった機能が今日はどこか沈黙している。
 その現実が胸に影を落とす時もある。「ダメだ」と諦めの気持ちになることもある。
 けれど、心の奥にはまだひとつ灯りがある。
「旅をしたい」という思いだ。自由に動ける自分の確認だ。

 世界を見て、風を感じて、家族の笑い声に包まれたい。車椅子のままでいい。
 押してもらう人には申し訳ないが、一緒に笑える仲間と出かけたい。

 本当は来年の春には、ボクらはもう世界のどこかにいるつもりだった。
 ロサンゼルスの空の下に降り立ち、海の匂いに深呼吸をして。
 サンタモニカの風が車椅子の背を押してくれるような感覚を楽しみ、ラスベガスのきらびやかな光の中で、かつての自分をふっと思い出す。
 ニューヨークでは大きな自由の女神を眺めて、ウユニ塩湖では空と地面が一つになる景色の中に身を預け、ロンドン、パリ、マドリードと、一緒に語りながら移動していく。
 フィンランドの夜空にはオーロラ。その静かな揺らぎを誰かの肩にもたれながら見上げられたら。色々な思い出がある地ばかりだ。それだけでいいと思える。

修理に出したトランクと旅の計画メモ(写真・本人提供)

 けれど旅は、いったん立ち止まった。家族の健康に不安が生まれたからだ。
 ボクは支えられて生きている。
 介助する側の体制が整わなければボクの一歩も一緒に止まる。無理を押して進む旅は、誰の幸せにもならない。
「延期」という選択をしたのは、大切な人を守るためだった。
 悔しさよりも、今は静かに温めている感覚だ。

 旅が中止になったわけではない。ただ、少し先送りにしただけ。時間が味方をしてくれることを信じている。

 この旅に込めた思いは、ボク個人のものだけではない。

「行きたいけれど、家族に負担をかけるのでは…」そう不安を抱え、扉の前で足を止めている人がたくさんいる。

 その人たちへ伝えたい。
 家族と共に出かけることは、負担ではなく「新しい記憶を一緒に作る」行為なのだと。「こんな旅の提案ができる」と知らせたい。

 段差があれば誰かが先に回ってくれる。声が出にくい日は、手を握ることで通じることがある。
 助けてもらいながら進む旅には、旅先でしか味わえない喜びがある。車椅子の旅とひとつにくくらず「要介護5でもこんな旅ができるよ!」と高齢者の皆様にも知ってほしい。

 諦めていた旅をする。
 それは、まだ生きていると確かめる手段だ。

 この前、Facebookにこんな言葉が流れてきた。
「夢を語る人といれば、夢が現実になる。文句を言う人といれば、不満が現実になる。」
 思いがけず、優しく背中を押された気がした。言葉は、ときどき向こうから現れて、未来の扉をノックする。

 ボクは、夢を語る方を選びたい。
 静かに、何度でも。だからここに記しておく。
 ロサンゼルスへ。ラスベガスへ。ニューヨークへ。ウユニ塩湖へ。ロンドンへ。パリへ。マドリードへ。そして、フィンランドの夜空へ。
 ボクは行く。
 時間がかかってもいい。その過程もまた、旅の一部だと思う。

福祉機器展で旅の便利グッズを探す様子(写真・本人提供)

旅の計画はいつも未来の光のようです。

神足明子(妻・介護する側)

裕司がいう「時間がかかってもいい。その過程もまた旅だ」その言葉が好きです。

「味わえない喜び」というものがあります。
 裕司の文章を読むと、私はいつもそんな気持ちになるのです。
 朝、裕司が「身体のどこが動くか確かめる姿」を横で見ながら、私も今日一日の気持ちの重心をそっと整える。介護というのは、ただ世話をするだけではなく、心の速度を合わせる作業でもある。それができているか、いつも私は考えます。

 そんな生活のなかでよくふたりで話す旅の計画だけは、いつも未来の光のようだなあと思います。
「また行きたいね」「次はどこにしようか」
 こうした会話が、私たちの楽しみでもあります。
 もちろん、体力のことや移動の段取り、車椅子でのアクセスなど気にしなければいけないことは多いです。でも、それらをひとつずつ調べていく作業そのものが、もうすでに旅の入り口に立っているようで嬉しいのです。
 思い返せば家族での旅は、いつも少し不器用。でも楽しくて珍道中。

 ロサンゼルスの空の下、サンタモニカの風を受けながら、海沿いの道で車椅子を押す私の手に裕司の体温が伝わってくるイメージ。

 ラスベガスでは、彼が何年も通っていたCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)の会場を「明子にも見せたかった」といってくれました。あのキラキラした光の街は、裕司のか青春の続き」のような場所で、その思い出に私も少しだけ混ぜてもらえるでしょう。

 ロンドンの街並みは、家族で何度歩いても飽きなかった場所。石畳に車椅子の音がコトコト響いて、その音に合わせて歩調をゆっくり進めると、まるで街そのものと呼吸を合わせているような気がしました。
 あの街で仕立てたスーツの話をすると、裕司は今も誇らしげな顔をします。
「どうかな?」と聞かれるたびに思う「もちろん似合ってる」そんな思い出。

 パリのカフェ、マドリードのあたたかい通り。人混みのざわめきの中でも、仕事を通して色々な場所に出かけました。

 そして今回は私がまだ行ったことのない国、フィンランドを候補に入れて調べていました。
 裕司が「本当によかった。いつか明子や子どもたちを連れて行ってあげたかった」といった国。その言葉だけで、私はもう何度も心の中でフィンランドを旅しています。
 けれど実際には、私は一度も足を踏み入れたことがありません。だからこそ、胸の奥に小さな憧れが灯りつづけています。
 特にオーロラ。長いあいだ「いつか」といいながらも、どこかで諦めていた場所です。寒さも移動の距離もあるし、車椅子では難しいだろうと思っていました。

 でも、この頃少しずつ調べてみると——。

・ ロヴァニエミ空港からバリアフリー送迎が選べる。
・ 「ガラスイグルー」と呼ばれる宿なら室内でオーロラが見られる。
・ バリアフリー対応のイグルーを持つ施設も増加。
・ 車椅子向けのオーロラ観測ツアーが存在する。
・ 冬の市街地は除雪が行き届き、短距離移動なら可能な場所がある。

 こうした情報が次々と出てきて、私は心の中で何度も「行けるかもしれない」「諦めていた旅ができるかも」と思いました。
 遠い国なのに、調べれば調べるほど手が届きそうな未来が見えてきます。
 その未来をふたりで迎えられるのだと思うと、胸がスッと軽くなるのです。地図を広げるだけで心臓の奥が温かくなるのです。実際行くまでには中々ハードルは高いけれど。
 介護しながら旅をするというのは、決して簡単ではない。でも「無理だからやめよう」ではなく「どうすれば行けるか」を一緒に考える、その過程が私たちにはとても大切な時間になっています。
 私たちと同じように、夫婦どちらかが歩きづらくなり、車椅子になり「旅はもう無理かな」と思っている人は本当に多い。そういう人たちに私は伝えたいのです。
「旅は負担ではなく共同で記憶を作る作業」だということを。
 段差があれば誰かが先に回ってくれる。
 時間がかかるぶん、景色をよりゆっくり味わえる。
 手を握れば伝わる気持ちも増える。

 車椅子の旅は、決して不自由なだけではありません。
 むしろふたりの距離が深まる瞬間が何度も訪れます。
 だから私は「介護しながらの旅」をもっと多くの夫婦に知ってほしい。

「こうすれば行けるよ」
「こんな工夫をすれば大丈夫」
 その方法を言葉にして届けたいという気持ちが、最近は自然と湧いてきます。

 私たちが近いうちに行きたい場所は、まだまだたくさんあります。ロサンゼルス、サンタモニカ、ラスベガス、ロンドン、パリ、マドリード。
 そして、まだ見ぬフィンランドの夜空——。
 地図の上で指を滑らせるだけで、楽しい。
 その未来に向けて、今は準備をしています。

 旅は目的地だけが旅なのではなく、準備をしている時間も、ふたりで言葉を交わす時間も、すべてが旅の一部なのだと思います。
 裕司がいったように「時間がかかってもいい。その過程もまた旅だ」私はその言葉が好きです。

 フィンランドのことを調べ、ロンドンの宿を探し、家族で行く未来の段取り段取りを少しずつ積み重ねています。
 旅はまだ始まっていないようで、実はもう始まっているのです。
 準備をするその手前から、私たちの旅はスタートしています。

機内の神足さん(写真・本人提供)

神足裕司

こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。

神足明子

こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。

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