コータリさんの要介護5な日常

<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。

連載第52回「料理の力」

料理は時代の記憶であり、人とのつながりそのものだ。

神足裕司(夫・介護される側)

これから先、体はさらに自由を失っても、味覚は残っている。舌で覚えた味は最後まで生きる力になるのかもしれない。

「青山の骨董通り」名前からして、もうなんだかちょっと背伸びした時代を思い出す。若い頃のボクにとって、あの通りを歩くことは、どこかしら自分も「広告の世界の住人」になった気分でいられた。そんな場所だったのだ。デザイン事務所もあれば、編集プロダクションもあった。コピーライターやCMプランナーが歩けば、そのすぐ後ろを、まだ何者でもない自分が追いかける。そんな気分で通った道の先に「ふーみん」がある。

 ふーみん。中華料理といっても、どこか家庭料理のあったかさを感じさせる店だ。赤い提灯がぶら下がっているわけでも、龍の刺繍がぎらぎらしているわけでもない。木の温もりと、ちょっと洋風な香りさえする不思議な空気の中で出されるのは、たらこ豆腐や納豆チャーハン。中華のはずなのに、日本人の胃袋にまっすぐ飛び込んでくるような料理の数々だった。

 ボクが足繁く通っていたのは、80年代の終わりから90年代の初めにかけて。仕事が少しずつ広がり始め、ようやく「物書き」と呼ばれることも出てきた頃だ。コピーライターの先生方に呼ばれて原稿の相談に行き、その帰りに「ちょっと寄っていこうか」とふーみんの忙しそうな店の中に入る。
そこには、いつも「ふーみんママ」がいた。にこやかに迎えてくれるあの笑顔。料理をすすめる声。あの頃の青山の空気は、彼女の人柄でやわらかく彩られていたように思う。

 先日15年ぶりにふーみんを訪ねた。記憶の中ではすっかり遠ざかっていたのに、店に入った瞬間ふっと時間が巻き戻った気がした。テーブルの配置も、あの落ち着いた照明も、あれ?こんなだったかなあとおぼろげだ。ママは70歳で勇退されたそうだが、店はきちんと受け継がれていた。

 メニューを開けばそこにある。たらこ豆腐、納豆チャーハン、豚肉のにんにく炒め。名前を見ただけで舌が思い出した。あの頃どれだけ夢中で箸を動かしたことか。仕事の合間に同僚や先輩と食べては笑い合い、時には一人で静かに食べて気持ちを立て直す。華やかな青山の時代の中で、ふーみんの味は、ボクにとって「ホッとする」隠れ家のような存在だった。

 久しぶりに注文したたらこ豆腐。口に入れると、記憶の奥で眠っていた感覚がぱっと蘇る。やわらかな豆腐にたらこの塩気がじんわり染みて、ご飯が欲しくなる。隣に出された納豆チャーハンは、香ばしい匂いが立ちのぼる。若い頃、ボクはこの味を家に持ち帰った。いや、正確に言うと「持ち帰った気分」になって、家で妻に「こんな感じなんだよ」と口伝えしたのだ。

 あれから我が家の食卓には「ふーみん風」のメニューが並ぶようになった。妻が作る納豆チャーハンは、ふーみんの味とは少し違う。でもその違いこそが、我が家の味になっていった。子どもたちも当たり前のように食べ、やがて孫の世代へとつながっていく。オリジナルを食べた人間だけが、「あ、やっぱり本家はこうだったか」と頷く。似て非なるものかもしれないが、家族の記憶としては立派に定着してしまった。

 そうやって時間は積み重なり、ボクはいま、再びふーみんの席に座っている。箸を動かしながら思った。あの時代の青山の空気も、ママの笑顔も、もう二度と完全には戻らない。だけど味だけは続いている。料理は世代を越えて受け継がれる。ボクが口伝えで妻に渡したように、ふーみん自体もまた、次の世代へと受け継がれていく。

 料理って単なる栄養補給じゃない。時代の記憶であり、人とのつながりそのものだ。納豆チャーハン一皿に、若き日の青山のざわめきや、コピーライターの笑い声や、深夜の編集会議の疲れまで染みこんでいる。それをいま再び食べている自分は、もうかつてのように走り回ることはできない。けれど、味は変わらずそこにあり、そして我が家にも残っている。

 ふーみんを出たあと、車椅子を押してもらいながらふと思った。これから先、ボクの体はさらに自由を失っていくだろう。すでに半身麻痺を抱え、昔のように軽快には動けない。でも、味覚は残っている。舌で覚えた味は、最後まで生きる力になるのかもしれない。

 帰宅して、妻に「久しぶりに本家のふーみんで食べたよ」と話した。彼女は笑いながら、「じゃあ、うちの納豆チャーハンも負けてないわね」と言った。そうだ、負けてない。比べるものではなく、両方があってこそ、ボクの人生の一部になっている。

 80年代の青山のコピーライターたち、にぎやかな骨董通り、ふーみんママの笑顔、そしていまの我が家の食卓。全部が一本の糸で繋がっている気がする。たらこ豆腐をひと口食べるたびに、その糸は鮮やかに光り、過去と現在と未来を結んでいく。

 ふーみんは単なる店じゃない。ボクにとっては、人生の節目を思い出させる装置みたいなものだ。15年ぶりに味わった一皿で、過去と現在が一瞬で重なり合った。
 料理の力って、そういうことなんだと思う。

車椅子用のスロープを置いてもらう。思い出のたらこ豆腐。(写真・本人提供)

裕司がいう「味覚が残る」ということ。

神足明子(妻・介護する側)

味や匂いの記憶が心の中で旅を続けているような気がするのです。

 裕司の原稿にあった「体は自由を失っても、味覚は残っている」という一文。読んだとき「ああ、そうだなあ」と思いました。
 人の記憶って、舌や鼻の奥にずっと残っている。たとえもう動けなくても、味や匂いの記憶が心の中で旅を続けているような気がするのです。
 ふと考えると、裕司が最近「昔行った場所を、もう一度見てみたい」と言うのは、その「記憶の旅」を、自分の目と舌で確かめたいからなのかもしれません。
「動けるうちにもう一度、あの風景を」そんな気持ちが心のどこかで燃えているのでしょう。

 思い出すのは、ラスベガス。
 毎年、お正月が明けるとすぐに出かけていったCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)。家電見本市です。
 一年のはじまりを告げる恒例行事のようでした。
 スーツケースの中には、取材ノートと名刺、そしていつも同じ帽子。ホテルの明かり、24時間眠らない街のざわめき。
 電話越しに聞こえた喧騒の音は、いまも耳に残っています。「子供達にお土産買ったから」
 きっと裕司の中では、あの街のネオンやホテルのロビーの匂い、深夜に食べたハンバーガーの味が、まだちゃんと生きているのだと思います。

ラスベガスの思い出(写真・本人提供)

 そして、イギリス。
 ロンドンで仕立てたスーツの話を、裕司は今でも時々します。
 その生地の触り心地、鏡の前でのフィッティングしている時に送ってきたニンマリした顔。
 あのときの彼は、仕事に誇りを持っていて、そして何より、旅を通じて「自分らしさ」を確かめていました。
 スーツを着ること、そして蝶ネクタイをつけることが、ひとつの表現だったのでしょう。

 旅はいつも、裕司にとって「仕事」であり「遊び」であり、そして「生きる理由」でもありました。動けなくなってからも、旅の話になると目の奥が少し光ります。
 それは、身体の自由を失っても、心の中にちゃんと世界が広がっている証拠。

 私自身も、昔行った土地の風景をふと思い出すことがあります。
 旅先の朝の光、石畳の音、知らない街の空気。そういうものを思い出すと、不思議と今の自分が落ち着くのです。
 あの頃の私も、ちゃんとそこに生きていたのだなと感じられるから。

 私たちは記憶の中でもう一度旅をする生きものなのかもしれません。そしてその旅は、少しずつ現実と重なっていくのです。
 行った場所をひとつずつ思い出していくことは、これまでの人生を撫でるように確かめる行為でもあります。

 裕司が言う「味覚が残る」というのは、きっとそういうことなんじゃないかと思います。
 ラスベガスのコーヒーの苦味も、ロンドンの雨の匂いも、全部が今も彼の中にあります。
 それが生きる力になっているのだと思うのです。
 これから先、体の自由が減っていっても、私たちの中にある「旅の記憶」は消えません。
 そして、もう一度どこかへ行こうと思えるうちは、人生はまだ続いています。実現可能なうちに、この体でも色々なところに行ける証明をするためにもやっぱりでかけようか。そんな話をするようになりました。
 今日も、昔の写真を眺めながら「この時のスーツ、まだ着れるから」と裕司が言います。
 そうやってふたりの旅は、始まっているのです。

機内の神足さん(写真・本人提供)

神足裕司

こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。

神足明子

こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。

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