コータリさんの要介護5な日常

<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。

連載第36回「死の淵の記憶」

「三途の川」はなかったが、家族の声に振り返ったから「現実の世界」に戻れた。

神足裕司(夫・介護される側)

ボクは2回死にかけた。

 最近、ドラマの番宣かなんかで戸田恵梨香さんが「死」への恐怖について語っていた。子供の頃から「いつかは死ぬんだ」と考えると、いつもシクシク泣いていたと。自称「ずっと考えちゃうタイプ」だそうだ。それが松坂桃李さんと結婚して「1人じゃないんだ」と感じられ、死への恐怖が変わったと。
 そんな話から「神足さん、死の淵までいったって聞いたけど?」と知人に聞かれた。ちょっと年上の(多分75歳ぐらい)彼女は「そろそろ終活をしようと思って」と常々話す人だ。

 そうボクは、12年前死にかけた。厳密にいうと2回目だということに世間的にはなっている。

 1回目は高校生の時、自転車に乗っていて交通事故にあった。鼻がへし折れて顔中包帯に覆われていた。全身を強く打っていたのだ。ベッドの周りで母が泣いていた。「いやボクは、平気だ。こうして意識もある」と思っていた。が、体が1ミリも動かなくて、そのことを伝えられずにいた。だから今考えると、よくいう「死の淵」まではいっていなかったんだと思う。現実世界に生き残っていたからだ。

 2回目は、飛行機の中でくも膜下出血に見舞われ、そのまま救急搬送・手術となった。
 ボクはこの時から、記憶障害にもなった。だから、色々なものに書き留めたり、こうして原稿に書いたことが、ボクのそれからの新たな記憶になっている。
 書いたものによると、ボクは、くも膜下出血になって意識不明の間、どこかで忙しく忙しく原稿を書いていた。たまにどこからか呼ばれるが「忙しいからそれどころではない」そう思って書き続けていた。ある時、家族の声が交互に聞こえたので振り返ってその声の方へ振り向いた。「あれ?いないか?」そんな記憶。
 その後「パパ、わかったら手を握って」「文子(長女)はどれ?」家族の声に従って、手を握ったり指を刺したり。倒れてから1ヶ月近くたち、目覚めた時の話だ。

 よく聞くような「三途の川」はなかったが、きっと呼ばれていた声に振り返らなかったら、どこかわからないその場所に留まっていたんじゃないかなと思う。振り返ったから「現実の世界」に戻ってこれたんじゃないかって。
 夢だったのかどうかわからないが、家族の声で振り返り生き返ったことは確かだと思っている。

 それから3ヶ月間にわたり、頭蓋骨を頭の中に戻す手術などをしているわけだが「苦しい」とか「痛い」とか、覚えていることはあまりない。1年以上経って家に帰ってきた時に、ベッドの上で天井を見つめ「体が動かない」ことを改めて認識する。涙がつーーとほおを伝わる、それが次の記憶。
 メモに書いた記憶の証拠は他にも色々あったんだけど、自分が死と向き合ったのは、その2つのポイントだった。

「死にたくても自分では死ぬこともできないな」そう認識した。動けないことが情けなくて、涙が出た。天井しか見られない。
 けれど、そんな気持ちになったのもその時1回きりだ。家族がなんだかんだ、無理難題言ってくる。知人が「できるかもよ」と、こんな体のボクに仕事を持ってきてくれる。家事を手伝わせてくれたり、外出も頻繁に連れていってくれた。自分にも「できることがある」とわかって「まだ死ななくていいかもしれない」と思った。

 ボクの記憶によると、パソコンかペンで描いていたかも定かじゃないけど、その死への入り口みたいなところにいた時は痛くも痒くもなかったと、思う。なんにもない世界で原稿を書いていて、忙しかった。それが死の淵の記憶。怖くはなかったと思う。
 死ぬ間際はつらくないのかもなあ、と思っている。

くも膜下出血後の神足さん(写真・本人提供)

くも膜下出血から1ヶ月たったころ、裕司はゆっくり目覚めました。

神足明子(妻・介護する側)

ドラマでよく聞くあの電話がかかってきました。

 裕司が飛行機の中でくも膜下出血を発症し、そのまま救急車で搬送されて、あのドラマでよく聞く電話がかかってきました。着歴の最後が娘の文子だったらしく、部屋にいた文子の携帯にかかってきました。「ママ、大学病院の先生からだよ。パパが倒れたらしい」
 電話を代わると「落ち着いて聞いてください。神足裕司さんが飛行機の中で倒れて大変危険な状態です。落ち着いて病院までいらっしゃってください。緊急手術が必要です。どのぐらいでいらっしゃれますか?必要があればご家族にも知らせてください」
 電話で、既にもう「危険」なことがわかる内容でした。家にいた娘と、母を車に乗せて病院に走ります。その間、外にいた息子も病院に呼び寄せました。

 病院に着くと、検査に入ったはずの裕司とは、なかなか会えませんでした。状態もよくわかりません。10時間ぐらい経った後、ようやく病状の説明があり「大変危険な状態です。どなたか知らせたい人があったら」そんなことを言われました。広島からも義妹が駆けつけ、ICUの裕司と会えたのは2回の手術を終えた後のことでした。

「2、3日が峠です」と言われ、それからしばらく経つと「目を覚ますことは難しいでしょう(植物状態)」そんな状態が1ヶ月も続いたのです。
「声をかけてあげてくだいさい」「ご家族の呼びかけが効きます」「パパ、パパもう時間だよ起きて」
「好きな音楽はなんですか?枕元でかけてみましょう」「ラベルのボレロかなあ、、よく踊っていたので」
「ん?踊る?」
「好きな食べ物は?その匂いを嗅がせてみましょう」
「あ、フグが好きです。でもフグじゃ匂いしないですよね。広島のお好み焼きかな」「焼きたてを持ってきます」

 そんな滑稽で真面目な会話をICUの看護師さんと真剣にしていました。ICUの看護師さんはなんでも話を聞いてくれます。
「あの、今日も違う方がお札を頂いてきてくれたのですが、もう一枚貼れますか?」
 枕元のモニタ横にはお見舞いに頂いたお守りや祈願のお札がずらり。
「神様喧嘩しないですかね?」
「大丈夫ですよ、神様が協力しあってくださいますよ」
「見栄えが怖くないですか?このお札群」
「これだけ揃うのも珍しいですけどね」

 冗談を言い合ってるみたいに聞こえるかもしれませんが、その時の私は真剣です。あとになってみると、ちょっとおかしいのですが。
 生死を彷徨っている裕司になんとかこちら側に戻ってきて欲しい。24時間いつでもICUには入れたので、ずっとずっと控室とICUの部屋を行ったり来たり。
「目を覚まして」そう願いました。なんとなく「パパは目を覚ます」と根拠のない自信があったのです。

 1ヶ月たったころ、脳を休ませるための麻酔が外れ、ゆっくり目覚めた裕司。「私たちを見てもわからないかもしれない」そんな予想に反して認識してくれました。この世に戻ってきてくれた。
 本当に嬉しくて「パパ、文子はどこ?」そう言っては、娘や息子を指さす光景が見たくて、何回もやってしまいました。

 よかった、帰ってきてくれて。

入院中お見舞いの品でもらったぬいぐるみと神足さん(写真・本人提供)

神足裕司

こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。

神足明子

こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。

コータリさんと明子さんへの応援メッセージ、取り上げてほしいテーマをお寄せください。

ご意見・ご感想はこちら

バックナンバー

コータリさんの要介護5な日常TOPへ戻る