コータリさんの要介護5な日常

<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。

連載第27回「単独での外出」

11年間、単独での外出は数回しかない。

神足裕司(夫・介護される側)

どんなに恵まれた環境で過ごしているのだろうか。

 いい大人がなんとも情けない話であるが、妻なしで1泊の仕事に出た。

 この11年、外出にはほとんど妻が、妻はいなくても少なくとも家族が同席してくれていた。

 以前にも通販生活の企画で、家まで迎えに来てくれて(家の者は玄関先まで)都内のホテルでツアーの方々と食事をして帰ってくるってことはしたことがあった。
「ツアー」というのは「高齢だったり、体が動かなかったり、なんらかの事情によって一人で外出できない方々が普段介助してもらっている家族などではなく一人でランチに行きませんか?」みたいなツアーだったと思う。
 そのツアーには、ボクみたいな人が来るということがわかっていて、ごく普通の方々もホテルの豪華ランチを食べにいらっしゃる。もちろん有料で。
 ボランティアみたいな感じなのか、もう何回も参加されているご婦人が現地で待ち受けていて、着くと慣れた手つきで車椅子を押してくれた。
 テーブルも色々な方と同席になる。もちろんプロの介助者も同席する。
 探してみたがコロナと共になくなってしまったのだろうか、今はそういうツアーは見つけられなかったが、単独の外出は本当にほんの数回しかなかった。

 なんという過保護な。

 単独と言ったって、ボクの知り合いの車椅子乗りみたいに本当の一人ではない。車椅子を動かせないのだから。「誰か」が介助についてくれる。それが、気心のしれている人か、初めての人かって違いだ。

 今回は、介護アシスト用具を開発してる会社に、そこを紹介してくれた人と出かける。24時間その用具を試してみる仕事だったため、泊まりだ。
 紹介してくれた人も介護関係のプロだから「大丈夫です、ボクが全てやります。風呂だって大丈夫ですから」とのこと。
 現地に行くまで妻の同席がなぜできないのか不思議だったが、ボクがいるベッドのある広い部屋は一部屋で、さまざまな器具が置いてある。ついてきてくれた人は廊下のソファーで仮眠をとっていたようだ。で、特に喋ることも必要なかったので、何ごともなく過ぎていった。

 食事は妻の指示で細かく切ったものをいただいたが、途中まで食べて「もういいのですか?」と聞かれ頷くと終了。家だったら「これからが本番」というように介助の食事が始まるところだが。
 歯磨きも水分を取るのも的確に手伝ってくれるので、特に不自由もない。ただ「パパ、どんなんだかメールしてね」と妻に言われていたが携帯が、手元になかったので一度もできず。そして何事もなかったかのように帰宅。

 困ったこともなく、普通に過ごした2日間。仕事だしね。

 けれど「あっちに行きたい」と思い目で合図すれば「どこ行くの?」と聞いてくれたり、飲みたいお茶のコップを見つめれば「お茶飲むの?」と聞いてくれてコップを引き寄せてくれる。そんなことが当たり前な日常はそこにない。
「もう面倒で手も疲れて痛いし食べなくてもいいや」そう思っているのだけど、もし手を差し伸べてくれたら食べられるかもしれない。けれど食事はそこで終わる。

 それがどうと言ってるわけではない。そういう違いがあるっていうこと。

 どんなに恵まれている環境で毎日過ごしているか、感謝しないといけない。

単独でお仕事中の神足さん。(写真・本人提供)

スパルタのような過保護のような練習をずっと一緒にしてきました。

神足明子(妻・介護する側)

「車椅子に座ることも難しい」と言われていたけれど。

 裕司はある日突然動けなくなった。

 9月が来たのでもう12年前のことだ。
 くも膜下出血を患って、後遺症で半身麻痺になった。
 動けないだけではなく、視野も狭くなって、今までの「まっすぐ」という観念で動いたら、ズンズン曲がっていってしまう。普通とちょっと違う。

 そのほかにも記憶障害や、喋れなかったり、12年前の体とは随分変わってしまった。

 ベッドに寝ていたら、寝返りも自分でうてない。
 まだ力の残っている右手でベッドの柵を持てば、頑張って頑張って横向きになれる。それがいきすぎて、ゴロっとうつ伏せにでもなってしまったらもう動けない。うつ伏せになって戻ることはできないのだ。

「ちょっとお尻が痛いなあ」なんて訓練の成果を思い出し、柵を握り横向きになってお尻の痛さを逃がそうと思ったらうつ伏せになってしまい、発見されないまま1時間以上がすぎた、なんてこともあった。動けずにうつ伏せになったまま、というのも辛いものだと思う。
 部屋に入っていって「あれパパどうしたの?」とびっくりする私。どうしたではない。声も出せないのだからSOSの合図も出せずに辛い姿勢でいたのだ。気がついてよかった。

右手でベッドの柵を握る神足さん。(写真・本人提供)

 でも思い起こせば、その12年前の退院するときは、まだ動きはするれど、その「右手で柵を持って肩を浮かせる」なんてことは、できるわけがないと思われていた。
 ご飯だって自分で食べるなんて夢のまた夢だった。
 原稿が書けるなんて思ってもみなかったけれど、病室で仕事仲間が持ってきた原稿用紙に驚くことに文字が書けた。
 何もできないと思っていたのに「え?パパ字が書ける?」「何が食べたい?」と聞くと「伊峡伊峡伊峡」と書いたのです。
 「伊峡」というのは神保町にあるラーメン屋さんの名前。

  「意思が通じて字を書けるの??」お医者さんも私たちも驚いた。
 とにかく何もできない、植物状態のような体だと思われていたから。

 脳が「ピシッ」とうまく合わないと、何もできなくなってしまう。
 本当に何百回も同じことを練習して「できないだろう」と思われていたこともどんどんやってもらった。一言だけの文字も、1行の文章が書けるようになって、それが3行、200字、400字、と伸びていった。

 スパルタのような過保護のような。ずっと一緒に食べることも歩くことも、人を思い出すことも、声を出すことも練習してきて「今」がある。

「もっとリハビリを頑張っていたら歩けるようになっていたかなあ?」と今も思うことはあるけれど「車椅子に座ることも難しい」と言われていた時代から比べればずっと進歩した。

 まだ遅くないと12年経っても思う。それに、いままでやってきたリハビリを怠ればあっという間に逆戻りしてしまう。
 風邪をひいて1週間やらなかっただけでも、麻痺側の足など拘縮がひどくなったりする。
 ただ私が歳をとってきたので「付き合う体力を鍛えないとなあ」と最近は常々思っている。

神足裕司

こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。

神足明子

こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。

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