コータリさんの要介護5な日常

<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。

連載第47回「認知症を考える」

義母は「自分」を持っている。だから妻ともぶつかる。

神足裕司(夫・介護される側)

短期記憶が苦手な義母の気持ちがほんのちょっとわかるボクは「なんかうまくいく方法はないかなあ」と考える。

 今回はちょっとよくわからない話をしようと思う。

 というのも、自宅の義母が認知症になってきているのだ。1年ほど前からゴミの日を間違え始め、夜中にボクらの寝室にきて、結婚して帰ってこない娘なのに「帰ってくるから早く迎えに行け」と言いだしたり「あれ?」と思うことが多くなった。
 心配した妻が、往診の先生へ相談し、義母と一緒に大学病院の物忘れ外来に出向いた。テストの結果は「まだ認知症ってこともないですよ。加齢です。年相応」とのこと。「そうか。年をとるってことはそんなもんなんだ」と妻と話していた。

 しかし、ここ最近妻と喧嘩することが多くなった義母。撮影用に納戸へしまっておいた進物用のお菓子を、どういうわけか出してきて食べた形跡があるのだ。「ここのものは撮影用」と付箋に書いて隠しておいたのに見つけて食べてしまった。普段使わないのでここなら見つけられないだろう、というところだ。「えーーないんだけど。食べちゃったの?」と妻。撮影の朝に大騒ぎ。

妻「なんで??」義母「あなたがちゃんとしてないからよ」
妻「わざわざかくしてしておいたのに?撮影用って書いてあったよね」義母「やっぱりあなたとは一緒に住めないわ」
妻「、、、、仕事に出かけるんだから、そんなのことに付き合ってる場合じゃない!」

 よくわからない喧嘩をし終えて、車の中ではぐったりの妻。
「真面目に対応している私が馬鹿みたいなんだから。わかっているんだけどね、相手はボケてるんだから。何を言ってもダメなんだって。やっちゃダメとか触らないでとか言ってる自分が情けなくなってくる。ダメダメ言われてる方も気分が悪いだろうし。言ったからって忘れちゃうんだから」ぷんぷんしながら泣いている。情けないやら大人気ないやらで嫌になるらしい。ボクはこうやって話を聞くしかない。
 あの大学病院の物忘れ外来でのテスト結果はもう変わってしまったんだろうか。最近、往診の先生に「長谷川式認知症スケール 」という簡易的な認知症検査をしていただいた。結果はかなり重症だ。まあ、簡易的なものなのでそれを「正確な判断だ」とも思わないが「日常生活の色々な場面で介助が必要」とのこと。

 もう随分前からガスコンロは使えなくなっている。鍋をいくつ真っ黒にしたかわからない。電子ケトルを買い「電子レンジを使って」ということになっている。
 ところが2日前、義母が紙袋ごと焼き芋を電子レンジにかけ、レンジの扉を開けた途端火が出て火事になってしまった。妻がそばにいたのでことなきを得たが、焼き芋も電子レンジもおじゃんになった。
「オーブン付き電子レンジだったから違うところを押したのかな。いやそんな複雑なことできないと思うけど、、、、」というわけで、単機能の電子レンジを購入した。

 義母は自由に歩けるのでなんでもやってしまう。四六時中見張っているわけにもいかず「家にいる限界なのかもしれないなあ」と考え寂しくなる。そのうちどこかに出て行ってしまって、帰ってこれなくなる日がくるかもしれない。そして今はまだ「自分」を持っている。だから妻ともぶつかる。義母の「母としての尊厳」色々な「母の気持ち」が踏ん張っている。

 最近そんなことを考えていると昔のことをぼんやり思い出すことがある。「ああ、そうだったのかも」と義母を見て思う。
 14年前くも膜下出血になり、ボクは多分、多分なんだけど記憶を失った。ほんの少しだけ覚えていたことがあって、それは家族のことだったり、今までの1000分の1ぐらいの記憶なんだと思う。ずっと昔のことは覚えていられるけれど「今」のことが覚えられない。薬を飲んだかなんて全く覚えていられない。ボクの場合は「お腹が空いていない」ということはわかるので、ご飯を食べたことを覚えていなくても「また食べたい」とは思わない。

 それは14年前から新しく記憶を上書きした感じの人生なんだと思う。

 くも膜下出血前のことは8割方覚えているんだけど、14年前から最近のことは、こうして書いたり、写真を見たりすると、そこの小さな点からビリビリッと記憶が広がっていく感じだ。記憶をとどめるための儀式をしている。
 ボクは「記憶していられないんだ」と自分で認識しているから、なんとなくその場の雰囲気で察知したり、いい加減な返事をしてしまうことがあるらしい。
「もう行ってきた帰りですか?」と聞かれると「え?!うん」と答えてしまう、といった具合だ。
 本当は「うん」じゃないけど「わからない」とは言いずらい。どうでもいい感じで「うん」と言ってしまって、よく妻から怒られる。
「記憶がない」ということは、自分にとって怖いことなんだなって思う。ボクの場合は、適当に誤魔化しちゃうぐらいの「どうだったっけ?」という感覚しかないけど、以前ベッドの上で「ここはどこだっけ?」と何も思い出せず、夢を見ているようで怖かった。思い出せないことが怖かった。

 認知症は怖くはないのか。ボクの病気とは違うのだろうが、お互い短期記憶が苦手ではある。「よくわからない」ってことがイライラさせる原因なのかな、と義母をみていて思う。
 妻も「ゆっくりでいいよ」とか「一緒にやるから待っていて」そんな言葉をかけ対応はしている。義母はそれでも思い通りにいかないのは嫌みたいだ。

 義母の気持ちがほんのちょっとわかるボクは「なんかうまくいく方法はないかなあ」と考える。考えるだけでまだ何もできていない。
 妻もたくさんの介護らしきものを経験してきたけれど「大ボスに出会ったなあ」とこの前も言っていた。自分の感情にズドンと来るそうだ。変わっていく母をみているのも嫌なのかもしれない。

 さて次はどうなることか。

義母と神足さん(写真・本人提供)

自分でも正直、わからなくなる瞬間があります。

神足明子(妻・介護する側)

裕司のことは「言葉を話せなくても私の痛みを1番わかってくれる理解者」だと感じています。

 母が認知症になり始めてから、日常のすべてが少しずつ変わってきたように思えます。忘れること、混乱すること、怒ること。それらが日々の中に静かに入り込んできて、気づけば私の感情がなんだか、少しずつ崩れ始めてしまうような気がします。

 裕司が病気で倒れた時、側から見ていたら「どうにかなっちゃうんじゃないか」と思われるほど心ここに在らずに見えたそうですが、自分ではしっかり立っていたつもりでした。が、今回の場合は崖がボロボロ横から崩れてしまうような、、、そんな気持ちになります。

「つらい」と思う気持ちは確かにある。でも、もっと複雑なのは、「情けなさ」や「苛立ち」や「諦め」といった感情が、自分の中で交じり合っていく感じ。それらは決して他人には見せられないもので、裕司にさえ、全部は見せられないな、と感じるもの。
 それでも、そんな感情になるのに、私はどうして母と一緒にいようとするのか。友達からは「もう限界だよ。早く施設探しなよ」そう言われます。

 自分でも正直、わからなくなる瞬間があります。

 母は昔、とても厳しかった。口うるさく、私の行動や言葉にいつも目を光らせていました。でも、そんな母の背中を見て、今の自分があるようにも思います。

 母が弱っていく姿を見るのは、正直、つらいのです。

「まだぐずぐずしてるの?早く施設探しなよ」と言われちゃうんじゃないかと思えて、弱音も言いだしずらくなってしまいます。
 とはいえ、私はもう若くない。心も体も、そんなに無理がきくわけじゃないしね。仕事も続けているし、夫のこともある。だから「無理をして共倒れになってはいけない」と自分をいましめてもいます。

 今までの私は「自分が何とかしなきゃ」という思いで何かを進めてきたように感じるし「弱音も吐けないな」と考えてもいました。
 でも、これからは「どうすれば、自分も母も心穏やかに過ごせるか」を1番に考えないと、と思います。

 ケアマネージャーさんには本当に助けられています。

 そして裕司のことは「言葉を話せなくても私の痛みを1番わかってくれる理解者」だと感じています。
 あの病気の経験を通じて、どこかでわかってくれているように思えます。

 この先、母がもっとわからなくなってしまう日が来るのかもしれない。

 そのために私は、どうしたらよいのかな。

 怒るより、笑うこと。
 責めるより、聞く耳を持つ。
 正しさより、ぬくもりを。できるかなあ。

「できること」を少しずつやってみようと思います。

 私以上に母は不安だと思うので。

温泉旅行での裕司と母(写真・本人提供)

神足裕司

こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。

神足明子

こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。

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