コータリさんの要介護5な日常

<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。

連載第17回「四季」

ベッドの横の窓から見える風景が「ボクの今の世界」だ。

神足裕司(夫・介護される側)

自宅で味わう「季節の移り変わり」

 体がうまく動かなくなってからしみじみ思うことは「季節の移り変わり」だ。

 元気だった頃は、夏になれば家族と旅行に出かけた。「夏休みだなあ」と実感した。
「ああ、あっつい」と言いながら助手席に乗り込む妻のため、エアコンのスイッチをマックスに回したり、灼熱のコンクリートジャングルの都心を、どう歩くと「いかに涼しい通路」を通っていけるか、なんて原稿に書いたりもしたなあ。

 暮れになればお節を作り、春になれば大勢で花見もした。秋の京都で紅葉狩りもした。

 日本の四季の移り変わりを楽しんだ。

 七夕や、お月見、豆まき、、、我が家は季節の行事をわりと大切にする方だったので移り変わりを楽しんでいた。

 ちょっとこの数日具合が悪かった。考えてみればこの2年ぐらい、すこぶる調子が良かった。入院も一回もしていない。コロナで菌を寄せつけるところに行かなかったのが良かったか?
 まあ、外出はそこそこしていたし、ベッドから離れて生活できていたわけだ。

 それがこの数日ベッドにいると、ベッドの横の窓を眺めていることが増える。
 窓の遮光カーテンがほんのちょっとだけ開いている。顔に日差しがかからない部分がほんのちょっとだけ。

 そこから見える細長い風景がボクは大好きだ。窓の前は、裏庭に続く「細ながい通路」と言っていいぐらいの庭だ。低木がうわっている。そしてその木がちょっとと、空しか見えない。
 今のような陽気になれば、数センチ窓も開ける。
 そこからの「季節の移り変わり」は「ボクが社会へつながっている窓だよなあ」といつも思う。

神足さんが好きな、カーテンの間から見える細長い風景
(写真・本人提供)

 自宅でこんなに季節を味わうなんてなかった。ベッドの上の、この狭く開いた窓から見える風景が「ボクの今の世界」だ。

 5月ぐらいになると、ウグイスが鳴く。最初は「ホーホー」なんてうまく鳴けないが、2ヶ月も経つと「ホー、ホケキョ」とうまく鳴ける。
 そうすると夏がやってくる。ものすごい風の音とゲリラ豪雨、窓を叩く雨の音。梅雨が終わると、眩しくて凝視できない窓の外。この時期は太陽が高くて顔に当たる。それもまた嬉しい。蝉がうるさいほど鳴いている。
 蝉時雨の後、秋になれば、夜になると虫の声。これからの冬の夜は静かだ。

 音と光で季節を感じる。狭い窓から見える空の色で季節が見える。
 こんなことからだを悪くする前は考えてもみなかった。
 体が悪くなって「いいこと」があったといえば、このことを思い出す。

あの時家に戻っていなかったら「今の裕司」はいなかった。

神足明子(妻・介護する側)

反対されても決断した二つの選択

 病気になってよかったことなんてあるのかなあ。

 もう発病から10年も過ぎて、病気の「車椅子の神足さん」が定着してきました。この10年、人の優しさを実感した10年でした。周りにいる方々がいなかったら生きてこれなかったとも思うぐらいです。

 クモ膜下出血で倒れて1年もの入院の後、全く変わった姿で帰ってきた裕司。「生きていてくれればそれでいい!死なないで」そんなことしか考えられない時期でした。

 その激動の入院生活1年間の話です。

 裕司が倒れてすぐの手術中に、彼女はやってきました。お父様が同じような病気で生死を彷徨った経験のある友人でした。

「『最善を尽くして助けてください!!!』そう涙ながらにお願いして父も生還したんだけどね、、、、神足さんが生死を彷徨っているときに、不謹慎なことだってわかってるんだけど、、、、」そういって彼女の経験を語ってくれました。

「自発呼吸が困難で呼吸器をつけたり、食事ができず胃ろうをしたり。これから選択することがたくさんある。息子や娘たちに選択させるのは酷すぎるから明子が決断することになると思うんだけど。私は『助けてください!!!』って思って藁をもすがる気持ちでお願いしていたけれど、父が亡くなるまでの4年間、動けなくなって、水すら一口も飲めないでカラカラになった声で『水』とかいわれてごらん。『どんなに辛い思いをして生きているんだろう』って何回も思った。『死んでしまってもいいから水を飲ませてあげたい』と思うのよ。こんな姿で『生かす』選択をした私たちが間違っていたんじゃないか。本当にそれが幸せか。一度呼吸器をつけてしまったら、基本的に死ぬまで外せないから、よく考えた方がいい」

 重い重い話です。

 何回かの手術をして「目が覚めないかもしれない」といわれていました。もし目覚めても「家族を覚えていないかもしれない。記憶があることは難しいでしょう」そんなことをいわれる厳しい状態で、何が何だかよくわからないまま時が過ぎて「どうしますか。どこまで治療をしますか。呼吸器をつけますか。」そんなことを問われて、サインしたことすら覚えていないのです。
 せっかくの彼女の忠告も、右から左にと耳を通り過ぎていってしまいました。

倒れてから6か月後のまだ動けない神足さん
(写真・本人提供)

 そういう「大きな選択」をもう一回しました。それは、病に倒れて退院できることになった1年後。

「自宅に戻すか」「施設に入るか」

 その頃の裕司は、ご飯をやっと口から食べることができる状態で、自分では食べることはできませんでした。ほとんど体も動かすことができず、機能としては「右手は動くよ」「でもまだちょっと右足は無理かも、、、」そんな感じでした。

「自宅でみるなんて無理だよ」

 それが病院も医療従事者の友人たちも、ほとんどの人が口を揃えていっていた意見でした。
 それを何を血迷ったか、家族全員一致の意見で「自宅に戻す」と決めたのでした。「無謀なこと」もわかっていなかったのかもしれません。
 でもその選択は、本当に良かったと思っています。あの時家に戻っていなかったら「今の裕司」はいなかったと思うから。

 とりあえず裕司の話は「病気になってからよかったこと」なので、ちょっと話はちがうのですが。わたしが病気になってからよかったと思うのは、この二つの選択と知人のあたたかさをものすごく感じたこと。

 親身になってくれて「ひとりじゃないんだ」と思えたことなんです。みんながいなければ「生きてこれなかったかも」と思うくらい。

 二つの選択は結果が良かったから思えることだということも重々承知ですが、振り返ってつくづく「よかったなあ」と思えることです。

神足裕司

こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。

神足明子

こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。

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