コータリさんの要介護5な日常

<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。

連載第38回「海外での体験その2」

ちょっとそこまで行けるバスにストレスなく乗れるのは「バリアがない」ってことだと思う。

神足裕司(夫・介護される側)

三代くんの旅を近くで見れるチャンス。

 さてさてもう少しハワイの旅の続きをしようと思う。
 今回いつもの取材旅行とちょっと違うのは、同行者に車椅子トラベラーの三代達也くんが同行していること。彼とは福祉用具展で6年前ぐらいに知り合った。

 家が近かったこともあり、どこからか帰ってきたタイミングが合えば、よく夕飯なんかを一緒に食べた。ちょうど彼の歳を倍にすると僕の歳くらいかな。ずいぶんな年齢差があるが一緒にいると知らないことだらけで、面白かった。同じ車椅子乗り仲間ではあるが全く違う感じがする。
彼は3年前、急に「沖縄に移住する」と言って遠くに行ってしまったが、彼のイベントや講演会、ボクのイベントなんかで年に何回か会っていた。

「ハワイ行きたいよね〜」そんな話をしていたら「あ、いく?」
 いつといつなら10日間日程が取れる。2人の1週間以上空いている期間のすり合わせ。「じゃここしかないね」と今回あっさり一緒に行くことになった。旅に際し、小さな仕事の案件を持ってはいたが、ほぼプライベートで動いていい旅だ。まあ、いつもながらあちらに仕事も持っていく。

 娘にボクの仕事の案件を一緒にこなしてもらうため、最初はレンタカーを借りた。昔からの我が家のハワイの過ごし方だ。レンタカー代は、昔も今も旅の予算のかなりのウエートを占める金額だ。「カハラにサンデーブランチに行きたい」なんて2人のやりたいことリストに載せたから「神足家はなんてリッチな旅なんだ」って言われちゃいましたが、「ほんとそれだけ」
昔のいい時代の思い出をなぞってレンタカーでたわいもないピクニックをするとか、スーパーに買い物に行くとか「ちょっと車で出かけるハワイ」に付き合ってもらい、満喫させてもらった。昔からの「家族と過ごす仕事もこっちでやれば格別さ!」のボクのハワイだ。

 後半の7日間は、世界一周を成し遂げたの三代くんの旅を近くで見れるチャンスだから、楽しみにしていた。

 まずそばにいて思ったことだが「日程に無理をしない」十分休みの時間があるってことだ。あれもこれもつめ込みすぎない。ゆっくりする。三代くんから習ったことだ。今日は仕事の日と決めたら部屋で仕事をする。帰国後すぐに講演会を控えていた三代くんは部屋で仕事。日本からZOOMでインタビューも受けていたなあ。ボクも原稿をのんびり書けた。

 ボクの旅は健常者と一緒か、取材のための旅行が多いため、結構スケジュールがつまっていることが多い。けど今回はのんびりしていた。無理はしない。「うん、そうだよなあ」と実感。

 そして移動は公共のもの。ハワイでは「THE BUS」になる。車椅子に乗っているとはいえ、バックパッカー的要素もある。今回だって自分が車椅子に乗って膝に置けるくらいの荷物しかない。あたりまえだ、1人ならそれしか持てないしな。

 ボクだって海外に行けば、できるだけその国も乗り物に乗ることにしている。バスだって国鉄だって地下鉄だってトゥクトゥクにだって乗る。

 今回は普通に出かける時はバスに乗る。車椅子が2人だってバス停で手をあげて乗る意思を示せばバスが停まってドアが開く。普通の乗客が待っている時は、車椅子が先。ドアが開くと、自動でスロープが降りてくる。結構なだらか。車椅子で乗り込むと、運転手さんが車椅子をとめる所定の位置へ案内してくれる。とめるとベルトをつけるかいらないか、こちらで意思表示。三代くんがボクにもちろんレクチャーしてくれる。「乗るときにどこで降りるか言っておくとスムーズだよ」と細かなことまで教えてくれる。ボクは、介助者が車椅子を押してくれるが、三代くんはずっと車椅子を漕いで進むわけだ。バスは本当に「ちょっとそこまで」でも行けるからありがたい。なんのストレスもなく「バリアがないってこのことだな」って思う。

バス内の車椅子スペースと車内の神足さん(写真・本人提供)

 三代くんみたいに自分で移動する車椅子乗りに憧れているボクだけど、まあ、彼らは想像すればわかることだけど、忍耐と体力がいる。麻痺した手で、車椅子を漕ぐのだから。

 それでもないものねだりで、レンタカーの助手席に腕の力でぐっと自力で車椅子から移って乗ったり、ベッドに移って寝たり、そんな生活を横で見ていると「なんでボクにはできなくて彼にできいるんだろうか?」「リハビリが足りなかったんだろうか?」そう思ってしまう。

 けれど「麻痺の種類が違うんだからしょうがない」そう言われて納得するしかない。全介助のボクの生活とはちょっと違う。彼の努力もよくわかったし、大変さもわかった。けれど無限の可能性だって彼には感じた。彼が不自由な手で毎晩夕ご飯を作ってくれた。ご飯を炊いてハワイのスーパーで買ってきた材料で豚の角煮やカレーライス、その余ったカレーでカレーうどんなど器用に作る。「瓶の蓋が開けられない」「袋が開けづらい」なんて、色々なことに出くわすんだけど、彼は楽しんでいる様子。ボクは食べる係。美味しい。

料理中の三代さん(写真・本人提供)

 バリアフリールームのキッチンはちょっと高さが低くできているところもあるそう。シンクの蛇口のレバーには届かなかったみたいだけど車椅子の僕らにも使える。
 なんでも楽しんで努力してやってる姿にかなりの刺激を受ける。どこまでって自分で決めなければなんでもできる。
 なにがボクにできるかなあ。また新しい目標ができた。

旅では脳の回線がピシッとつながり昔のパパに戻ったようでした。

神足明子(妻・介護する側)

よく行ったハワイは特別な場所。

 ハワイの旅を終えて思ったことは、裕司にとって「その地は特別なんだな」ってことでした。
 家族で裕司の仕事にくっついて世界中の色々な地に行き、バブル全盛時代だったこともあり、本当に色々な経験をしました。

 自動車会社の仕事で、ヨーロッパから車で入りアルプス越えのテレビ番組を撮影、なんて仕事にも一緒に行きました。流石に撮影には同行できないので、パリで別れて子どもと私で1週間、旅行するなんてこともありました。まだ小さな子ども連れです。
 できたばかりのパリ・ディズニーランドに泊まろうと、四苦八苦しながら到着したのに、ホテルに出向くと予約がないというのです。満室でとることもできないと。しどろもどろの英語で、「泊まるところがないと困る!!!」と訴え調べてもらうこと1時間。「中間に入ってくれた会社の名前で予約があった」とのことで、満室という割にはアップグレードした部屋に泊まることができました。

 その後パリで裕司と合流してヨーロッパ各地を周るという1ヶ月を過ごしましたが、かなりの珍道中。出発前に『アルプスの少女ハイジ』を観た息子とハイジの村で過ごした数日間は『ハイジヒュッテ』と名がついた可愛らしい宿の、しかもハイジのような屋根裏風の部屋で、窓を開けるとアルプスの山が見えるような素敵な場所でした。私たちは1ヶ月半滞在するために大きなトランクを2個も車に積んでの旅でしたから、屋根裏まで大きなトランクを上げるのが笑えるほど大変だったこともいい思い出です。
 そこに泊まっている間にも裕司から「原稿の締め切り日だから2人でどこか行っておいで」と言われハイキングコースを歩いたり。別の日には、リヒテンシュタイン公国までドライブしたり。今のようにカーナビがないので、パリで買った地図を頼りに「私、よくやった!」と今でも思うような旅でした。

 娘が誕生し家族4人で周った旅では、お姫様に憧れていた彼女をお城に泊めようと、面白いお城巡りなんてこともしました。家族旅行といっても常にパパ(裕司)は仕事を持っていき原稿を書くことは当たり前、現地から中継することもありました。今のようにリモートワークが当たり前ではない時代でファクスや電話回線を使ったパソコンのやり取りで凌いでいた時代です。本当に面白い旅でした。

 そんな中よく行っていたハワイがやっぱり1番の思い出の地なんだなあ、と今回思いました。
「もうこれが最後かな?」そんな弱気なことを言う裕司。
「家族でもう1回行きたいなあ」「アラモアナでバーベキューしたいなあ」「ラグーン(浅瀬)で買ったばかりの船のラジコン沈没させたよなあ」「ハワイカイ・ゴルフコースのショートコース、チビ達と回ったなあ」
 しゃべれないはずの裕司がポツポツと話します。思い出の地がそうさせるのか、びっくりするぐらいしゃべるのです。
「思い出のマーキング」親しい友人も言っていましたがその通り。いつも行っていたその場所に、ただただ行ってみたいのです。今回も「夕日を見てみたい」とか「カハラのショッピングセンターにある中華屋に行きたい」とか「昔行ったステーキ屋さんに行きたいとかカハラでサンデーブランチをしたい」とか色々なところをマーキング。
 ステーキなんて本人は食べられないのですが、ステーキハウスにも出向きました。この円安でうわさ通りの高額なディナーとなってしまい、店に昔のような活気がないのは残念でしたが、時がたち今が映し出され、それでもそこに行ってよかったと思えるのでした。裕司の顔つきまで変わって見えました。

 この旅でもう一つ、VRで思い出の地を撮影し、動けない方や高齢者などに日本中・世界中の地を見せる取り組みをしている登嶋健太さんのことを思い出しました。昔行って強く心に残っている場所に、経済的にも身体的にも自由に行くことがままならなくなっても、その取り組み「VR旅行」で体験したような気持ちが味わえたなら、本当に心が少し若返るんだなと今回の旅で思いました。
 実際の場所に行けた今回はラッキーでした。娘が数日付き合ってくれたことが相乗効果となり、裕司の脳の回線もピシッとどこかがつながったようでした。昔のパパに戻り、自分がどうにかして子どもを楽しませようという気持ちになっているのがよくわかります。
仕事モードの脳はいつもどこかに回線があるようで、背筋が伸びて違うモードになることもわかっていました。が、今回は「パパモード」で脳の回線がつながることを発見しとように思えました。しかも特別な場所でだけ発令する回線。

「もう一回行けるかな?」「家族で行けるかな?」私は今回の旅で強く思いました。旅には何か違うパワーがひそんでいるんだなと。帰ってきた時の家での安心感も含めて、やはり脳に刺激を与えるということでしょうか。昔ヨーロッパでフル回転した私の脳を思い出してみても「日常ではない何かが働かなければ生活していけない」そんな旅の醍醐味がパパの身体にも刺激を与えているんだと思います。

 最後に介護する側の話を。旅は日常でないのでベッドからの車椅子の動線、お風呂に入るのだってそれこそ何もかも違うのです。介助に関しては2倍、いえもっと大変かもしれません。旅に出たらあれもこれもしてあげたいとなるのですが、半分もしてあげられない。「大体『してあげる』ってどうなの?してあげるんじゃなくってパパがしたいことをするんだからさあ」など説法のような自問自答。短い限られた時間しかないのですから「そこで1番どうしたいか」をプロデュースしないとな、と思いました。身体だって昔のように動くわけではありません。
 本当はプールにも入りたかったし公園でピクニックもしたかった。そのリクエストはわかっていましたが、できませんでした。ささやかなリクエストだったけど叶えられませんでした。詰め込めばできたかもしれませんでしたが、いろいろ考えて諦めました。これも介護する側の見極めです。
 もしまた行けたら叶えてあげたいなあ。その日のために頑張って仕事をしようと思いました。

娘が子どもだった頃と今回の旅、同じカハラのビーチで。(写真・本人提供)

神足裕司

こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。

神足明子

こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。

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