<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。
連載第1回「パパが倒れた日」
今となっては原稿が記憶となって残っているってことなのだ。
神足裕司(夫・介護される側)
自分の体から離れた場所で自分を見ている感じ
2011年の9月、それは突然の出来事だった。広島でのテレビ収録の帰りの飛行機の中で頭を激痛が襲った。気がついたら、東京の病院のベッドの中で体は全く動かなかった。くも膜下出血だった。急に自分が天国か地獄にいってしまって横たわっている自分を俯瞰で見ているみたいな、そんな感覚だ。動こうとしても動けない、喋ろうとしても喋れない。目だけがぎょろぎょろ動いてみんなを見ているが何にも通じない。その頃はまだ口から水すら飲むこともできなかった。もう発症から3ヵ月ぐらいは経っていたんだと思う。初めての記憶。それも定かな記憶ではない。
実は、ICUで醒まさなかった1ヵ月あまりボクはずっと忙しく原稿を一人で書いていた。(夢の中でだけど)忙しくて忙しくて誰かに呼ばれているのはわかっていたけど、振り向けなかった。が、あるとき「パパ」と呼ぶ声が聞こえた。で、振り向いたら病院のベッドの上だったというドラマのような本当の話。たくさんの管に繋がれていて身動きも取れないのだけど目を覚ました。目だけが動く化け物みたいだと自分で思った。「ピ、ピ、ピ」とあの病院特有の機械の音が規則正しくなっているのが生きてるってことだなあなんて自分の体から離れた場所でずっと見ている、そんな感じだった。自分がどうにかなってしまった自覚はあったがいろいろなことを考える力はなかった。その頃の記憶を書き留めて原稿にした。今となっては原稿が記憶となって残っているってことなのだ。
原稿を書く右手は自由が残った。(写真・本人提供)
目を覚ましたからって家族の顔を覚えてないかもと言われたらしいが、ボクは目を覚ました時から家族の顔がわかっていたし、仕事の予定が気がかりでならなかった。こんなとこで寝ている場合ではないと気がかりでならなかった。以前の記憶はしっかり覚えていた。が、声も出ない。そして寝ると全て忘れてしまう。その日のことは覚えていられない。忘れるけど、次の日また同じことを考えて記憶が蘇る。その繰り返し。その頃のことだって何回か、こうして文字に書いているからそれが記憶になっているようなもので、自分自身どう記憶があるのかよくわかっていない。不思議な感覚だが直近の記憶だけが抜けてしまう。
人生は一変してしまった。1年間入院した。たくさんの手術もした。バリバリ取材して仕事していたボクはもういない。そう思った。生き残ったけれどどうすればいいんだ。そう思った。家族はどうしているんだ。どうやって食べているんだ。そんなことを考えられるぐらいの頭に戻って怖くなった。気がついたら体は動けなくて喋れなくて時間だけ1年も経っていた。
動けなくって食事も自分では出来ないし、水も自分では飲めなかった。周りのみんなはそのまま施設に入所することを勧めてくれたそうだ。自宅では面倒を見切れないそんな状態での退院だったのだ。けれど家族は何を思ったのか自宅に帰る道を選んだ。それがなければ、絶対に今のボクはいない。
入院は1年に及んだ。(写真・本人提供)
できないことはたくさんあるけど
家族や周りの仲間たちの献身的な支えがあって今に至っている。唯一家族が喜ぶんだったらやるか、それがモチベーションになって嫌なリハビリもやっていた。元来怠け者のボクがリハビリをやるのは家族が喜ぶからってだけの話だ。家族がいるってことはありがたいことだなあと何回も思った。
そして、左半身麻痺と失語症、短期記憶が苦手など、いろいろな後遺症はあるもののこうやって原稿も書けるまでになった。まだ自分の力では寝返りも打てないが車椅子に座って外国にも行った。食事も口から食べられるようになった。取材にも行く。できないことを数えたらたくさんあるんだけど、記憶も覚えていられることも忘れてしまうこともある。それがどういう法則でそうなっているかは分からない。
一つわかっていることは娘や妻が困っていることなんかは覚えている。急いで行かないと間に合わないって言ってたけど遅刻しなかったかな? とか。つまらなかった取材なんかは忘れちゃうこともある。まあ、健常なときでもそうだったと思うけど。
「冷静だった私」というのは、自分の思い込みだったようです。
神足明子(妻・介護する側)
「パパは大丈夫。絶対意識が戻ってくる」
裕司(パパ)が飛行機の中で倒れてすぐ病院から電話がありました。娘の携帯にです。羽田の近くの大学病院の先生からで、「気をつけてすぐ来てください。家族に連絡してください」と。
あまり詳しくは話さなかったけれど十分に危険な状態であることがわかる電話でした。娘と、私の母を車に乗せて不在だった息子に病院に直行するように連絡も済ませました。懇意にしていたお医者さんの家族にも電話したし、パパが「もしものことがあったらこいつに電話するように」と言っていた後輩のお医者さんにも連絡しました。
自分は「しなければいけないこと」を頭の中で復唱してかなり冷静だと思っていました。けれど病院に着いてもなかなか本人に会うことができないし、今どうなっているかも全くわからなくて私の気力はシュルシュルとしぼんでいきました。
「大変危険な状態です。どなたか知らせる方がいればすぐに連絡してください」。先生からそう言われた時は夢の中にいるようでした。1週間ほどして「命は助かったとしてももう意識は戻らないかもしれません。万が一目を覚ましても植物状態に近いと思います。ご家族のお顔もわからない可能性が強いでしょう」。次々に恐ろしい宣告が襲ってきました。でも不思議と「パパは大丈夫、絶対に意識が戻ってくる」、そう信じていました。
ICUで奮闘
ICU(集中治療室)にいたときは、毎日部屋の中に入っていって話しかけるけど、どこか自分がテレビの中にいるような、ドラマのなかで演じているような……本当はこの次元にいないんじゃないかと感じていました。
部屋を出ると普通に時間が流れていて他の人たちが普通に生活しているのがものすごく不思議でした。生死の境目を必死で戦っているパパを見ていつも私はふわふわ揺れているようでした。
「好きな音楽をかけてあげてください。たくさん呼びかけてください」と言われていたのでCDコンポを持ち込み音楽をかけました。パパの好きな音楽ってなんだっけ?映画「愛と悲しみのボレロ」の音楽やフランク永井の「夜霧の第二国道」などなんの脈絡もない楽曲を編集してエンドレスで流していました。生死の境目にいる緊迫感と、それとはちょっと違う曲が流れる不思議な空間でした。
ICUの横の家族控え室まで、毎日たくさんの人がお守りやお札を持って駆けつけてくれました。ICUは機械と管だらけの空間ですが、「すみません、これ友人が持ってきてくれて」と言うと、看護師さんも慣れたものです。「貼っておきましょうね」と枕元のコードに貼ってくれました。次々にお守りやお札が増えて、まるで万国旗が並んだロープのようになっていました。逆に不気味だなあ、なんて家族で話したりしましたが、パパが目を覚ますには神頼みしかないと本気で思っていました。「どっかの神様、仏様、どうかこっちの世界にパパを戻してください」そうお願いしました。
またある時は、先生から「神足さんの好きな食べ物はなんですか? 意外に食べ物の匂いに反応するかもしれません」と言われ、広島風お好み焼きのソースと青のりの匂いなんじゃないか? と本当にそれらを持ち込み、「早く食べたいでしょ? 早く起きなよ」って匂いで誘いだす作戦までしました。パパが起きたあとに聞いてみましたが、残念ながらお好み焼きの匂いは届かず、神様にも会わなかったみたいです。こんな滑稽だけど真剣なことをずっとしていました。ICUはそんなことも許される空間でした。
約1ヵ月の昏睡の後・・・
明子さんの携帯に残る当時の写真(写真・本人提供)
目を覚ましたパパが私たちのことを本当に覚えていないのか、ベッドの周りを家族でかこみ、「祐太郎(長男)は?」「ママは?」「文子(長女)は?」と質問すると、パパがそれぞれの顔を指で指す。「わかってる!」、そのことが嬉しくて、何回も同じことをしては家族全員で大騒ぎをしました。目覚めたことも私たちのことがわかることも嬉しくて嬉しくて、単純に嬉しくて涙が出ました。
知人からは、「もしもの際は、呼吸器をつけますか? 延命はどの程度しますか?」と聞かれたら、パパのためにもよく考えた方がいいよと忠告されていました。
いまから考えると、「そんな場面なかったよ」と思うのですが、節目節目では聞かれていたそうです。じゃ、そのときなんて答えてた? と長男に聞くと、「できることは全部してください。助かるはずですから」、そう答えていたそうです。全く覚えていないので「冷静だった私」というのは自分の思い込みだったようです。
ICUは特別な場所で、今まで体験してきた世界とは全く別な場所でした。生死の境目で頑張っている人がいるわけなので緊張感があるはずなのに、時間は止まっているか、かなりゆっくり動いているように感じました。
痛くないように、苦しくないようにしてあげてほしい。それを確認しに毎日通っていました。待合室で待っていても何もできないことはわかっていましたが、近くから離れられませんでした。
神足裕司
こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。
神足明子
こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。