<毎月第2・4火曜更新>2011年、突然のくも膜下出血により要介護5となった神足裕司さん(コータリさん)と、妻の明子さんが交互に綴る「要介護5」の日常。介護する側、される側、双方の視点から介護生活を語ります。
連載第43回「今のボクについて」
ボクの脳は2つのことを一緒にしたり短期記憶が苦手。
神足裕司(夫・介護される側)
質問に対し答えるために書くのは相当苦手だけど自分の思うことはその場でスラスラ書ける。
新しい年が始まった。今年もよろしくお願いいたします。
改めてボクの今の状態がどうか説明すると、12年前のクモ膜下出血の後遺症・高次脳機能障害で話すことができない。本当は声は出る、頭の中では。口のそのすぐそこまで言葉は出ているつもりだが、声には出ていない。だから妻の毎朝強制的な「おはよう」の挨拶は、声を出して「おはよう」を返すまでずっとそばで待っている。
「ん?」「ん??」「あ!おはよう」
毎日のことなのに声に出すのを脳が忘れていると、妻の顔が近づく。そうそう「おはよう」だね。そんな具合に何分でも待っていてくれる。夫婦の朝の儀式である。
妻曰く「もっと練習すれば言葉も出たかもしれないと思うこともあるけど、しゃべる機能と考えて言葉にする機能の2つが同時につながらないんだと思う」とのこと。普通、人間がすんなりとしゃべる機能と、考えて言葉にする(声に出す)機能が同時に働いてしゃべることができてるけど、2つのことを一緒にする機能が壊れちゃってるってことだそうだ。
例えば「箸を持ち丼ぶりのうどんを数本持ち上げ口に運ぶ」こう書いたって3つや4つ同時に色々行うことを脳は処理して、うどんを口に運んでいるわけだけど、ボクはうどんを持ち上げることができても口に運ぶまでなかなか同時にできない。持ち上げたところで止まる。そこで妻が「パパ食べて」そう声をかけてくれると次の作業ができる。
不思議だ。調子がいい時は続けてできることもあるけど、うどんを食べるってことは箸を使ってうどんを口に運ぶほか、顔をちょっと前に傾けたり、口を開けたり、知らぬうちに同時に作業をしているのだ。高次脳機能障害というのはそういうことができなくなる障害らしい。足を動かすのも然り。
脳の壊れた部分が右側に多く、左半身が麻痺している。左手はリハビリの成果もあって少しは動く。けれど使い物にはならない。左足は本当に一生懸命リハビリしてきたつもりだが、ほとんどダメだ。視野狭窄というのもあるらしく、真っ直ぐという観念が普通の人とも違うらしい。電動車椅子を運転すると、どんどん曲がっていってしまう。「2つのことがいっぺんにできないということは、結局ほとんどのことができないんだなあ」と実感する。
さらに短期記憶が苦手である。ちょっと前のことを覚えていられない。よく認知症の高齢者が、ご飯を食べたのも忘れるというけれど、ボクもそうだ。「ご飯食べた?」と聞かれ「食べていない」と首を振ると「あれ?さっき食べたけど」なんてこともある。
ただ、食べてないと思っているけどお腹はいっぱいなので「食べたくはない」。そこは認知症とはちがうのかもしれない。不思議なもので短期記憶が苦手なんだけど、数日経ったり、昔のことや印象的なことは覚えている。取材なんかは、写真をいっぱい撮ってもらって見ると思い出す。「あ、この人と話した、、、何話したっけ?」「隣に大きな機械があったね」「あ、その隣に複写機があった」と芋づる的に思い出す。とにかく色々なものが機能するまで時間がかかるのだ。咄嗟には不可能だし、誰か(特に馴染みでない人が)一緒にいただけで、できるものもできなくなる。
こうして、原稿を書くのも考えて物を書くという何個かの作業を一緒に行っていくものだとは思う。
例えば質問されて「どうですか?」なんて聞かれことに対し答えるために書くのは相当苦手だ。言葉と同様、そこまで手の先まで書くことはわかっているんだけど書けない。相当時間をとって待ってくれるか、落ち着いた環境にいないとできない。
それがだ。不思議なことに、こうして自分の思うことをその場で書くのは、スラスラできる。脳と指先の鉛筆までが直結しているように書けるのだ。
「今日何が食べたい?」と聞かれても書くことができないんだけど、自分が思いついた「あ、これ食べたいかも」なんてことは聞かれてない時に自発的に書いたりはできる。
だから今思っていることも環境さえ整っていればこうして書ける。時間がかかることもある。隣で見ている妻がもう書かないのかと思って「もう今はやめる?」なんて声をかけて、脳の回転が中断し初めからやり直しってことも昔はしょっちゅうあったけど、「シーン」とした無の時間が続いたとしても静かに待っていてくれる。1回その集中が途切れたら、思考も書こうと思っていた内容も、また一からやり直しということも少なくない。どんなに長い原稿でも一気に書く。
「本当にボクに書く機能を残してくれてありがたい」何かにそう書いたら「体が覚えているように、染みつくぐらい繰り返しやっていたことはできることが多い」とお医者さんから言われたこともあった。でも誰かに見られていると全く機能しない。
困った脳だ。しかし、たまに例外もある。NHKのテレビ番組で病気に倒れてからの特集を組んでくれたことがあった。スタジオ収録で「最後に奥様の存在を一言で言うと」と言われ、そんな事情も知らない司会者がペンと紙を渡してきた。
普段なら書けないであろう、そのたくさんの人に囲まれたその環境で「かけがえのない人」と数分かかったが書いた。あの時、その数分間を待てないディレクターや司会者だったら「カット」されたかもしれないし、口を挟んだかもしれない。そんな数分の静寂は普通なら放送事故にもなりかねない。その日待っていてくれた方々は「プロだなあ」と思った。ボクの方もプロ根性を出せたのかもしれない。普段ならできない根性。書いた後その手元がアップになり、司会者や出演者の涙を誘った場面も映し出された。しかもその日のことは忘れずもせず鮮明に覚えている。いや、書いたことは本当だ。妻がいなくては仕事もできないし、生きてもいけていない。妻のおかげでストレスなく過ごせる。
後もう一つ、印象的なインタビューを受けた覚えがある。毎日新聞の取材で発病後1年ぐらいに家に来てくれたインタビュー記事。その時「何か書いている記事を見せて欲しい」と言われ、その時締め切りが近かった原稿を書いているところを見てもらったことがあった。普段ならよく知らない人の前で原稿を書くなんてできないはずなのに、そのインタビューしてくれた人が、ものすごく切り込んだことも聞いてきて「ちょっと違うな」と同業者の端くれとして感じていた。今まで病気になって何十回もインタビューを受けたけれど「真摯に受けなければ」と思った。スラスラ手が動いた。覚えているのはこの2回だが、どうだろう。やればできるんじゃないかとも思うし、覚えていることだってできるんじゃないかと思っている。この原稿も、もうかれこれ2時間ぐらい止まったり書き始めたりしているが、その間誰の邪魔も入らない環境で、しかも妻は音も立てず同じテーブルで待っている。いや今はうたた寝をしている。なかなか大変なサポートだもの。
原稿を執筆する神足さん(写真・本人提供)
今普通にできていることは「普通なんかではなく本当にすごいこと」
神足明子(妻・介護する側)
パパにとって「書くこと」は「食べること」よりも頭にすり込まれた、反射的にでできること。
パパを見ていると「人間ってすごいんだなあ」といつも思います。
クモ膜下出血で脳内に壊れてしまった部分があるので、できないことがたくさんあります。
今まで普通にできていたことも、私が今普通にできていることも「普通なんかではなく本当にすごいこと」なんだと思うのです。
パパが病気をするまでは、そんなことを思ってもみませんでした。普通の人は死ぬまで気がつかないのかもしれません。
「物と食べる」という作業一つとっても、手で持って(またはお箸やフォークを手に持ちさらにそれを使って食べ物を持ち上げる)口へ運ぶ。こぼれないように口を(頭を)少し食べ物側にかたむける。口をあけて食べものを受ける。口に含んでかむ、飲み込む。色々な作業の連続で食べ物は食道に入っていくのです。食道が動き胃の方まで運んでいきます。そんなことを考えて食べたことはありませんでした。
発病してから数ヶ月たった頃、病室で先生がゼリーをスプーンの先にちょっとつけて口に運んでみます。大がかりな吸引機械をたずさえ、万が一にも備えています。喉を通るところをレントゲンでも撮っています。
「ああ、食べられるみたいですね」食道に穴を開けて呼吸を助けていましたが、それを一時的にふさぎ食べる練習です。それが練習をすると「この前ゼリーをごっくんできていたよね」とそれが夢でもみていたんじゃないかと思うくらい、口に含んだ食べ物をごっくんと飲み込めないのです。リスのように頬に貯めたまま。「パパ、ごっくんして」長い時間かかってやっと飲み込みます。
昔できていたことが反射的にできてしまうこともあるようで、突然なにかの拍子に食べられることもありました。けれどいつもはやっとあけている口の隙間に、恐る恐るペースト状のものを運んでいきます。「はい、口あけて」「はいごっくんして」言葉と動作は通じているみたい。色々できることがあると、それだけで嬉しくなります。
寝たきりの植物状態になると言われながら1ヶ月かかって目覚めたパパです。そんな繰り返しを何千回も練習してできるようになるのだな、と気長に繰り返しました。
植物状態で家族も認識できないと言われたパパが「文子はどこ?」というと娘を弱々しく指さすのが嬉しくて何回も試しました。歯磨きで水をペッと吐き出すことも飲み込むこともできなくて苦しくなり先生をコールで呼んだ事もあります。「パパ、口をあけて水を吐き出すの」顔が真っ赤になってきて焦った私。苦しそうなパパ。
でもゆっくりゆっくりできることが増えていきます。1口食べられるようになると「ああよかった、次は2口ね」と喜んでいました。
「赤ちゃんもこうして覚えていったのかなあ」と実感しました。
今でも自分やる口に運ぶまで作業は、とても疲れるみたいで少し食べるとやめてしまいます。「お腹いっぱいなの?」そう聞くと首を横に振るので「そうか、これって大変な作業なんだな」そう思います。ステーキやお魚を食べたがるのですが、硬いものや、筋のあるものは飲み込めません。
でも食べたいのだから、飲み込めなくても口に含み噛みます。どうしても飲み込めないので口から出します。病院の嚥下外来では「喉の嚥下に問題はなさそう」とのこと。やはり脳の何かの後遺症のようですが、うまく飲み込めません。
「そんなものを食べたら死んでしまう。ペースト状のものか、せめて刻み食を」と指導する方がいる一方で「死ぬ覚悟で好きなものを食べればいい」そうおっしゃる方もいます。
「死ぬ覚悟で好きなものを食べる」派のパパは、自分が好きなもには手が出ます。相当気をつけてはいますが、飲み込めないパパは不幸中の幸い。どこかの国の王様みたいに口の中でエキスだけを味わって、今は食欲もあります。病院に入院した時のように食べるのが苦痛なようでもありません。
ただ、違う病で何回か入院すると、また初めの頃のように(全く初めではありませんが)戻ってしまうのです。
「パパ食べられる?」食べる練習が始まります。「食べることって人間にこんなに大切なことなんだね」と思い知らされます。当たり前のことが本当に大切なことなんだ、と認識するのです。
先ほど「反射的にでできることがあるみたい」と書きましたが、パパにとって「書くこと」がそれにあたります。脳から腕、指先、そのさきのペンに至るまでが一体化していて「書くことが」はスルスルできる2、3のことの1つでした。
「食べることよりも頭にすり込まれた物だったんだなあ」と思います。何万回もやってきたことなのです。なんだかジンときてしまいます。
あともう1つ、頭に刷り込まれていたと思われるものがありました。父親という感覚です。愛する人への思いやりです。
声が出ないと思われていたまだ病気のはじめの頃、娘を心配したパパは「文子帰らなくていいの?」と娘に話しかけたのです。
「しゃべることは無理」と言われていた私たちは、初め亡霊でも出たのかと思ったぐらい驚きました。娘が1人で遅くまで病室にいたので暗くなる外を見て心配したのでしょう。とっさに声が出たのです。
それからしばらくしゃべることはなかったので「本当に心配だったんだね」と。
12年たった今でも「まだ何かができるようになるかもしれない」と思っています。
ベッドでケアをうける神足さん(写真・本人提供)
神足裕司
こうたり・ゆうじ●1957年広島県生まれ。大学時代からライター活動を始め、グルメレポート漫画『恨ミシュラン』(西原理恵子さんとの共著)がベストセラーに。クモ膜下出血から復帰後の著書に、『コータリン&サイバラの介護の絵本(文藝春秋)』など。
神足明子
こうたり・あきこ●1959年東京都生まれ。編集者として勤務していた出版社で神足さんと出会い、85年に結婚。1男1女をもうける。