イラスト/瀬藤優

評論家の川本三郎さんによる、山田太一ドラマの魅力に迫る連載。今回は東日本大震災を題材にした三部作の最終作『五年目のひとり』です。3・11のその後を生きる人たちの苦悩と再生を、一人の女の子の目を通して描いたドラマ。謎めいた場面から始まるこのドラマを、川本さんに繊細に解き明かしていただきました。

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五年目のひとり
後編

作品:
五年目のひとり
2016年11月(全1回)テレビ朝日
脚本:
山田太一
演出:
堀川とんこう
音楽:
川井憲次
出演:
渡辺謙、高橋克実、木村多江、柳葉敏郎、板谷由夏、西畑大吾、蒔田彩珠、山田優、大出菜々子、原舞歌、市原悦子ほか

明かされる秀次の過去。

「あの人は福島——」と京子がいっただけですぐに弘志は反応する。「津波ですか」。薄々、感じていたことなのだろう。やはりそうだったのかという思い。

京子によれば、秀次はあの日、地震のあとの「まさか、まさかの大津波」で、奥さんと、高校生の息子さんと、学校ごとやられた中学三年生になろうとする娘さんと、それに加えてさらに近くに住む両親、奥さんの実家の大船渡の御両親と義姉、「みんな、ごっそり、いなくなったの」。

秀次だけは仕事の関係で仙台に行っていたので助かった。家族がみんな死んでしまって、自分ひとりが生き残った。どんな気持ちがしただろう。

あまりに悲しみが大きく、深いから、もう津波のことを人にいいたくない。いえば、聞くほうはみんな「それはお気の毒で」としかいいようがない。

地震直後は、それでも懸命に働いた。事実やることはたくさんあったし、働くことで悲しみを忘れることもあった。

それでも、三年目の秋になって、秀次の精神状態がおかしくなった。三年もたって、人によっては立ち直りはじめた頃になって、秀次は深い悲しみ、喪失感に襲われた。喋っていると涙が出てくる。関係ないことで涙が出てしまう。自分でもおかしいと思ったのだろう、自分から入院したという(おそらく心療内科)。

ようやく退院出来たので、京子がこの町に来るように誘った。

2016(平成28)年11月19日(土)、放送時のテレビ番組表(クリックすると拡大します)。写真提供/毎日新聞社

たった一人の「喪の仕事」。

京子の話を聞いて、弘志は、これまで秀次が自分のことを話さないでいたことを納得する。東日本大震災のあと、つい、当事者でない者は、被災した人々を「被災者」と一緒にしてしまう。しかし、被災者ひとりひとりは、それぞれ違った体験をしている。それぞれが自分だけのかけがえのない人間を失っている。だから「被災者」と一括されることには耐えられない。自分の悲しみは他人には話さず自分で抱えこむしかない。「がんばろう」という言葉が空しく思えてしまう。

秀次は、自分の想像を絶する体験を自分だけで向き合い、ひとりで「喪の仕事」をしてゆくしかない。

山田太一は、秀次の苦しみ、悲しみを静かに見つめようとしている。安易な同情の言葉や励ましはかえって相手を傷つける。

神の存在に触れた瞬間。

秀次はまた亜美と会う。

そこで亜美が秀次の心のうちを察したようにいう。「亡くなった人の誰かが私と似ているのかなって——」。少女の鋭い勘だろう。秀次は、はじめて打ち明ける。

津波で死んだ中三の娘が、亜美にそっくりだった、と。

亜美は、心のどこかでそう感じていたに違いない。世界のどこかに自分にそっくりの人間がいる。そう意識することで人は、神の存在を意識するのだろう。それはあまりに神秘的な事実なのだから。

映画の誕生期の女優リリアン・ギッシュは、はじめてスクリーンで自分の映画を見たとき手を伸ばせば触れそうなところに自分がいることに言い知れぬ感動を覚え、静かに涙したという。リリアン・ギッシュはその時、神の存在を感じたのではないだろうか。

亜美は、友人の雪菜とイッ子と三人で秀次のアパートの部屋で、はじめて秀次が大切にしていた写真を見せられる。礼子という秀次の娘は、確かに亜美にそっくり。

雪菜は写真を見て、あまりに二人が似ているので正直に「怖いよね、こんなに似ている人がいるなんて」という。そして亜美は静かに泣く。このとき、彼女たちは無意識のうちに神の存在に触れたのではないだろうか。リリアン・ギッシュがそうだったように。

イラスト/オカヤイヅミ

救われた秀次が決めたこと。

東日本大震災では大勢の人が亡くなった。生き残った者は、そのあと、日常のそこここで、死者がそこにいることを意識したに違いない。惨劇のあと死に敏感になっている。死者の向こうには神がいる。戦場では誰もが神を信じるようになるというが、惨劇のあとにも残された者は神を意識するようになるのではないか。そういえば、秀次は亜美がはじめて秀次のアパートの部屋に案内したとき、「驚くなよ。大勢、死んだ者たちがいる」と不思議なことをいっていた。

亜美は、京子から話を聞いて秀次が、獣医だったことを知った。放射能を浴びた牛を処分せざるを得なくなった。獣医としてつらい仕事だったろう。以前、店の通りで秀次が幻想のように大きな牛が近づいてくるのを見たのは、その罪の意識のためだったかもしれない。獣医の秀次にとっては、牛も家族と同じように死者として忘れられないでいる。

秀次は最後、福島に戻ることにする。

亜美の母親が、娘を心配する気持ちもわかるから、母親は娘が秀次の死んだ娘の代理のように思うのが我慢できない。亜美は亜美であって、秀次の娘ではない。家族を何人も失った秀次にきついことを言うことは出来ないが、母親として亜美を守ろうとする気持ちは真剣で嘘はない。

秀次もそれが分かるから、これ以上、亜美の家に余計な迷惑をかけられないと身を引く。それに、娘にそっくりの亜美が思いやりのあるいい子で元気でいることに救われた思いもしている。

一気にほとばしる悲しみ。

福島に帰ることを決心した秀次はある夜、幼なじみの京子に会う。京子には世話になった。礼をしたい。何より苦しい胸の内を同じ福島の人間に明かしたい。

悲しいことは忘れなくては生きてゆけない。しかし、家族のことは忘れられない。忘れたくない。ふたつの相反する気持ちに引き裂かれてゆく。どちらが正しいということはない。これからもふたつの気持ちを抱えて生きてゆかなければない。そう考えて、はじめて他人に心の内を打ち明ける。重荷から少し解放されたのだろう。秀次はここではじめて男泣きする。京子に「泣いて。思い切り泣いて。思い切って泣いてから福島に帰って」といわれると、涙声は号泣にかわる。いままでひとりで抱えこんできた悲しみを一気に吐き出すように大声で泣き崩れる。京子が抱きしめ慰めるから、いっそう緊張の糸が切れたように涙がとまらない。ここは、それまで渡辺謙が寡黙だっただけに、見ている者は胸が詰まる。

福島に発つ前に、秀次は亜美にも別れを告げる。はじめて声を掛けた歩道橋のところに亜美が別れを告げに現れたとき、道路をへだてて秀次は大きな声でいう。「ありがとう」。ここはまるで恋人どうしの別れのようでほほえましい。

福島に帰った秀次はまた獣医の仕事を始める。そしてもうじき出産する牛を診察する。新しい生の誕生が予感されている。
※次回は『ながらえば』(5月7日公開)を予定。

川本三郎(かわもと・さぶろう)

1944年、東京・代々木生まれ。東京大学法学部卒業後、朝日新聞記者を経て、映画や文芸、都市論などを中心とした評論活動に入る。主な著書に『大正幻影』(91年・サントリー学芸賞)、『荷風と東京「断腸亭日乗」私註』(97年・読売文学賞)、03年『林芙美子の昭和』(03年・毎日出版文化賞)、12年『白秋望景』(伊藤整文学賞)がある。その他、『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』、近著に『映画の木洩れ日』(キネマ旬報社)、『遠い声/浜辺のパラソル』(ベルリブロ)、『陽だまりの昭和』(白水社)がある。

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