イラスト/瀬藤優

評論家の川本三郎さんによる、山田太一ドラマの魅力に迫る連載。前回に引き続き、中高年の男女の恋を描く一連の作品の中から、八千草薫主演の『いちばん綺麗なとき』を取り上げます。抗うことのできなかった戦争の悲劇と、それでも失われることのなかった「若くてきれいだった頃」の尊さをうたいあげたこのドラマを、茨木のり子の感動的な詩を引用しながら解説していただきました。

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いちばん綺麗なとき
中編

作品:
いちばん綺麗なとき
1999年1月(全1回)NHK
脚本:
山田太一
演出:
伊豫田静弘
音楽:
福井峻
出演:
八千草薫、加藤治子、夏八木勲、多田木亮佑、中嶋ゆかり、安福美奈、三浦康徳、松原実智子、服部美和、渡辺幸生、小澤寛、池田博、エレガント浜田、内藤諭ほか

シベリアからの引揚船が着く港。

謡子は武田と舞鶴に行く。

名古屋からは新幹線で京都へ。京都からは山陰本線で綾部。綾部からは舞鶴線で西舞鶴へ。鉄道好きにはこの鉄道の旅が丁寧にカメラでとらえられていてうれしい。綾部駅での乗り換えシーンはないから、二人が乗ったのは綾部から舞鶴線に乗り入れている特急だろう。

京都から一時間ほどで西舞鶴駅に着く。

折から小雨が降っていて旅情を感じさせる。

武田の話では、妻の父親が舞鶴港に着いたのは、昭和二十一年十一月十六日のこと。ナホトカから興安丸で舞鶴に戻った。妻が十八歳のとき。

シベリアに抑留されていた日本人が帰国するようになったのは、ソ連が抑留日本人送還の合意文書に署名した昭和二十一年以後。

十二月八日に引揚船大久丸がシベリアの抑留者二五五五人を乗せて舞鶴港に入港した。それが最初だった。

以後、結氷などを理由に中断したが、昭和二十四年に再開。

昭和二十九年には、〽母は来ました 今日も来た、で知られる菊地章子の歌う「岸壁の母」(藤田まさと作詞、平川浪竜作曲)が多くの日本人の涙を誘い、ヒットした。

この歌は、十年間、シベリアに抑留された元日本兵の息子の帰国を待ちわびて引揚船が舞鶴に着くたびに岸壁に立ち尽くした母親の実話をもとに作られた。私などの世代には、舞鶴はこの歌と共に忘れ難い港町になった。

戦後の舞鶴が持っていた役割。

現在では引揚者という言葉は死語になっているが、当時は、日常のなかに普通にあった。その頃の日本映画にはよく引揚者が出てくる。

例えば昭和三十二年に公開された林芙美子原作、千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』の山田五十鈴演じる主人公は、戦争が終わって何年もたとうとするのにいまだにシベリアから戻って来ない夫を待ちながら、幼い子どもを抱えてお茶の行商などをして生きている女性だった。

同じく林芙美子原作の昭和三十年に公開された成瀬巳喜男監督の名作『浮雲』の高峰秀子演じる主人公は、戦時中、日本占領下の仏領インドシナ(いわゆる仏印)でタイピストとして働いていて、戦争が終わって引き揚げてくる。映画の冒頭、彼女が引揚船から降り立つのは舞鶴港。

従軍看護婦、女性事務員、慰安婦、芸者など女性ばかりを乗せた引揚船が舞鶴港に着く。舞鶴から物語は始まっている。「舞鶴」という言葉は、戦争を体験した日本人にとっては特別な意味を持った。

イラスト/オカヤイヅミ

「若くてきれいだった頃」への想い。

武田は舞鶴に来て、何をしようとしているのか。掘割に架かった小さな橋の上で小雨のなか武田は謡子に話し出す。

昭和三十一年の十一月、舞鶴にシベリアからやっと帰国した父親は、身体が衰弱していたので、しばらく舞鶴の国立病院に入院して手当てを受けたあと、家族が暮す名古屋に帰ることになる。

そこで何年ぶりかで舞鶴の写真館で再会した記念に家族写真を撮ることになった。両親と娘、弟。そのあと、娘、つまり十八歳のときの妻の写真を撮った。十代のときの唯一の写真だった。

その大事な写真を火事で焼いてしまった。妻からそう話を聞いたあなたのご主人はおっしゃった。写真は舞鶴の写真館にあるかもしれない。一緒に探しに行こう。自分がいえなかったことをあなたのご主人はいった。そして二人は舞鶴に出かけた。

二人は写真を見つけた。妻はご主人に感謝した。その写真の妻は五十代の妻ではありません。若くてきれいだったんです。 

でも、妻は写真を家に持ち帰れなかった。ご主人と一緒に旅したことが分かってしまうから。

なぜ、自分が舞鶴に行って写真を探そうと言わなかったのか。悔やまれます。

沈痛な面持ちで語る夏八木勲(以前の芸名は夏木勲)がいい味を見せる。この一九四〇年生まれ、俳優座出身の俳優は五社英雄監督の『牙狼之介』(66年)や工藤栄一監督の『十一人の侍』(69年)などの時代劇における精悍な面構えの武士が印象に強いが、こういう女性が主役の現代劇で、渋い魅力を見せるとは少し意外。

時代は引揚船が着くあの頃に。

武田の話を聞き終えた謡子は、話につられたようにいう。「探しましょう、その写真館を」。

そこから二人の写真館探しが始まる。二人はそれぞれの連れ合いが自分には話してくれなかった秘密を知りたい。共有したいという思いが強くなっている。いわば亡くなった死者に近づきたい、彼らと大事な記憶を共にしたい。

二人は雨のなか、タクシーに乗って町の写真館を探しまわる。そしてついに見つける。看板に旧字で「寫眞舘」とあるから古くからある写真館なのだろう。

店内には、引揚船興安丸の入港写真が何点か飾ってある。うまい展開。

そのスチル写真から、画面は、当時のニュース映画の映像に変わる。現在から一気に過去に戻される。

船上で鈴なりになって何年ぶりかで見る故国に手を振る引揚者たち。桟橋で迎える家族たち。そして抱き合う人々。泣きくずれる妻や母、子どもたち。なかにはまだ帰国の報らせのない家族の消息を知るために、「訪ね人」の紙を帰還者に見せている者もいる。

1999(平成11)年1月23日(土)、放送時のテレビ番組表(クリックすると拡大します)。写真提供/毎日新聞社

写真にとらえられた清楚な美しさ。

あの戦争を「侵略戦争」と批判するのは正しくても、政治家や軍人のような権力者は批判しえても、戦争に狩り出された市井の人々を批判することは出来ない。夫や父や息子を涙で迎える妻や子どもの姿をとらえたニュース映画の映像には、現代のわれわれが見ても胸ふさがる思いにとらわれる。

一家は四人の写真の他に、一枚、当時、十八歳の娘だった妻の写真を撮った。

モノクロの写真で、長い髪をうしろに垂らした、いかにも昭和の少女らしい清楚な美しさがある。この写真は、実際に写真館に残っていたものなのか、それともドラマ用に作られたものなのかは分からないが、美しいこの少女の写真を見た謡子の夫が「こんなにもきれいな娘さんだったのか」といったというのも分かる。

写し出される別れの悲しみ。

いまのように簡単に写真が撮れる時代ではない。カメラはまだ普及していない。写真を撮るのは特別な時で、それも写真館で撮った。

そもそも日本で写真館が増えたのは戦争があったからだという。日清戦争、日露戦争、そしてそのあとの日中戦争、太平洋戦争。大きな戦争があるたびに市井の男たちが召集された。送り出す家族は、これが最後かもしれないと写真館で家族写真を撮った。兵隊に取られた男たちが戦死した時には、その写真が思い出のよすがになった。写真館で撮られた写真には今生の別れの悲しみが写し出されている。

舞鶴の写真館で撮られた十代の妻の写真は、何年ぶりかに父と再会した歓びの写真の筈だが、清楚な少女の表情には長い戦争を体験した者の悲しみがにじんでいる。

謡子の夫の茂が、その写真を見て「こんなにもきれいな娘さんだったのか」と感慨をもらしたのは、単に美しい少女を見ての感嘆ではなく、戦争で父親を失い、戦後、母も失い、苦労して育った茂の、同じように戦争の時代を生きた同世代の少女への共感があったからだろう。そのことを謡子も武田も気づかされたに違いない。
※以下、後編に続く(9月25日公開)。

川本三郎(かわもと・さぶろう)

1944年、東京・代々木生まれ。東京大学法学部卒業後、朝日新聞記者を経て、映画や文芸、都市論などを中心とした評論活動に入る。主な著書に『大正幻影』(91年・サントリー学芸賞)、『荷風と東京「断腸亭日乗」私註』(97年・読売文学賞)、03年『林芙美子の昭和』(03年・毎日出版文化賞)、12年『白秋望景』(伊藤整文学賞)がある。その他、『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』、近著に『映画の木洩れ日』(キネマ旬報社)、『遠い声/浜辺のパラソル』(ベルリブロ)がある。

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