イラスト/瀬藤優

評論家の川本三郎さんによる、山田太一ドラマの魅力に迫る連載。先ごろ、山田ドラマを愛してやまない宮藤官九郎さんの脚本による『終りに見た街』が放映されましたが、生前の山田さんも二度ドラマ化している名作です。今回は中井貴一主演の2005年版『終りに見た街』を取り上げ、何度リメイクされても決して古びないこのドラマのテーマの深さについて、川本さんに解説していただきました。

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終りに見た街
中編

作品:
終りに見た街
2005年12月(全1回)テレビ朝日
脚本:
山田太一
演出:
石橋冠
音楽:
坂田晃一
出演:
中井貴一、木村多江、成海璃子、成田翔吾、窪塚俊介、柳沢慎吾、遠藤憲一、今福将雄、佐々木すみ江、金子賢、柄本明、柳葉敏郎、津川雅彦、小林桂樹ほか

終戦が来るまで逃亡を続ける家族。

ここから、要治の一家四人と敏夫と新也の二人、計六人の逃避行が始まる。当時の日本人から見れば六人は得体の知れない異邦人であり、非国民である。身分証明書(国民登録)もない。あやしまれたら逮捕される。未来から来た者は昭和十九年の日本では厄介者である。どうやって昭和二十年八月十五日の終戦の日まで逃げ続ければいいか。逃亡の物語になってゆく。

逃げるときに持ってゆくモノは昭和十九年の日本になかったモノはまずい。携帯もテレビゲームも、あるいはテレビやパソコンも。アメリカと戦っているのだから英文字の入ったシャツもだめ。持ち出せるモノは限られている。お金も現代のものは使えない。敏夫の発案で家は将校にあやしまれるからと焼くことにする。

家が焼かれたと知って妻も子どもも打ちひしがれる。『岸辺のアルバム』(77年)で描かれたように郊外住宅地に住む小市民にとってモノとしての家は、家族と同じように大事な寄りどころである。このあたりはいかにも小市民の暮しを描き続けている山田太一らしい。

2005(平成17)年12月3日(土)、放送時のテレビ番組表(クリックすると拡大します)。写真提供/毎日新聞社

「建物疎開」させられた下町の悲劇。

逃亡者にとって寝るところと食料の確保はいちばんの問題。そこではコンピュータに精通している要治など何の役にも立たない。昭和十九年にはコンピュータはないのだから。要治よりむしろ、ずっと下町の浅草で人のつながりのなかを生きてきた敏夫のほうが、こういう危機的状況では頼りになる。

一夜の宿に納屋を借りようと立ち寄った農家で、その家の主人(今福将雄)が「いくら出す?」と金を要求すると食ってかかるのは敏夫のほうである。その怒りに老人は負けてしまう。ここで敏夫はこんなことをいう。

「俺たちは、お上の命令でな。自分の家とりこわして来たんだぞ」。

驚く老人に敏夫は続ける。「空襲がはじまったら、東京の下町は家がびっしりで逃げる場所がねえ。空地をつくれって、無理矢理、みんなのために、自分の家捨てて来たんだよ」。

政府が昭和十九年に決めた、いわゆる「建物疎開」である。火除けの空地を作るために指定された地域では、人が住んでいる普通の住宅を無理矢理取り壊した。下町で暮している敏夫は戦後生まれだが、下町の不幸な歴史をよく知っている。このあたりの山田太一の描き方は素晴らしい。

悲喜こもごもの食糧調達。

ユーモラスな場面もある。

要治と敏夫が府中あたりの豪農の家へ食糧の調達に行く。ここでも敏夫が活躍する。

応対に出た老人(津川雅彦)に嘘八百を並べる。現代から持ってきた折り畳み傘をさも宝物のようにうやうやしく取り出し、自分はさる高貴な御方の運転手を十八年勤めているものです、といったあとおもむろに説明する。

「これは軍と宮内省が極秘で開発した皇族の方のための傘です」と適当なことをいって折り畳み傘を開いて、主人を驚かせ、米一俵とリアカーをせしめる。これには要治も感服する。

一方、要治はといえば米や芋を求めて農家を訪ねるが、「芋が欲しくていい顔しとるが、内心この田舎者と思うとるだろうが」とか「行くだ、行くだ。東京者に売るようなもの、なんもないだ」と冷たくあしらわれる。

食料不足が続き、金よりも食料が、モノが大事になった時代には、それまでの都市と農村の関係が逆になっている。農家のほうが「東京者」より強くなっている。

「東京者」の要治は、農家まわりをしながら卑屈になってゆく。闇の米や芋を仕入れに行く時、そんな時くらい、病気を理由に学校に行かせずにいる小学生の稔を外に出さなければと連れて歩くことにする。しかし、農家に対してどうしても卑屈になってしまう父親を稔は見ることになる。父親としては「この子は内心私を軽蔑しているのではないか、失望しているのではないか」「平成の時代を慌てて捨てて、温和しく戦争中に適応し、休日にはやたらに世辞をいって、芋を買いに行くだけの父親」と要治の内面の語りがナレーションで語られる。この自嘲の言葉には、東京人である山田太一の忸怩(じくじ)たる思いも込められていよう。

イラスト/オカヤイヅミ

空襲の被害が少なかった町から町へ。

彼らは苦しい日々を送りながらなんとか昭和十九年の時代に合わせようとする。

敏夫はボールペン一本でバリカンを借りて息子の新也の髪を刈って坊主頭にする。

要治は父親からもらったレアもののスイス時計を手放して、なんとか戸籍係から偽造した謄本を手に入れると国民登録した。この時代、食糧も衣類も登録をしないと配給を受けられない。要治は家にあった『昭和戦時中の暮し』という本を手引きにして、この時代のことを学んでゆく。

この本で、東京の西は、東の下町に比べ空襲の被害が少なかったと知り、府中、三鷹、立川と東京の西へ移動してゆく。転々とするのは他でもない、隣組の人間にあやしまれるたびに家を替えなければならないから。

逃亡者の身を隠すような窮屈な暮しは、戦時中の徴兵忌避者の逃避行を描いた丸谷才一の長編小説『笹まくら』を思い出させる。島国の日本では国家から逃げ続けることは困難をきわめる。

挿入されるニュース映画の悲痛さ。

昭和十九年の六月以降、日本の戦局は厳しくなる。七月にはサイパンが陥落する(米軍はここに飛行場を作り、B29による日本本土空襲を開始する)。テニヤン、グアムも米軍に取られる。サイパンでは民間人が一万人も亡くなった。さらに米軍はフィリピンのレイテ島沖海戦で勝利。日本の連合艦隊は事実上壊滅状態になった。そして十月二十五日には神風特攻隊の第一陣がレイテ沖で米艦隊に出撃した。

これらの戦局がドラマのなかで、実際のニュース映画の画像によって語られてゆく。サイパン島の住民の日本人女性が崖から飛び降り自殺しようとする映像は、昭和十九年に生まれた人間には胸に迫るものがある。

戦局の悪化と息の詰まる日々。

要治たちは、国民登録をしたのでなんとか当時の日本人になる。要治と敏夫は兵器工場で働く。娘の信子は郵便局へ勤めるようになる。引きこもりの新也と小学生の稔の二人は病気ということで家にいる。妻の紀子は、隣組の人たちと竹槍で米兵を突き殺す訓練にと駆り出される。

息の詰まる日々は変わらない。家にこもりっきりの稔はいらいらして障子に手を突っ込んで破ったりする。外でメンコをしている子どもたちが羨ましい。稔が、平成の時代からひそかに持ってきたのがドラえもんの携帯ストラップというのが泣かせる。ドラえもんのタイムマシーンがあれば、もとの家に戻れるのにという思いだろう。

近所の子どもたちは、八月、学童疎開によって先生に引率されて農村へと旅立ってゆく。稔だけが取り残される。

彼らは相変わらず居場所を転々とする。中野、板橋、新大久保、そして荻窪。ここで事件が起こる。引きこもりでほとんど口をきかなかった新也が〝I WALK ALONE〟(一人で生きてゆく)と書き置きを残して家を出てしまう。こんな時代、引きこもりの少年が一人で生きてゆけるのか。
※以下、後編に続く(11月20日公開)。

川本三郎(かわもと・さぶろう)

1944年、東京・代々木生まれ。東京大学法学部卒業後、朝日新聞記者を経て、映画や文芸、都市論などを中心とした評論活動に入る。主な著書に『大正幻影』(91年・サントリー学芸賞)、『荷風と東京「断腸亭日乗」私註』(97年・読売文学賞)、03年『林芙美子の昭和』(03年・毎日出版文化賞)、12年『白秋望景』(伊藤整文学賞)がある。その他、『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』、近著に『映画の木洩れ日』(キネマ旬報社)、『遠い声/浜辺のパラソル』(ベルリブロ)がある。

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